映文計

映画と文房具と時計、好きなものから1文字ずつもらって「映文計」。映画のことを中心に日々綴っていきます。

『透明人間』という短編映画が『千と千尋の神隠し』の地上波上映と共に流されたことの意義

去る8月16日。通算9回目となる『千と千尋の神隠し』が地上波で放送された。
 
その番組構成が見事だったので、放送から1ヶ月近く経った今ブログを書いた。
ブログを書きたかったがFC2ブログにログインできなかったので、心機一転はてなブログで新しくブログを始めてみることにした。
今回はそんな新生映文計の1本目。
 
僕はスタジオジブリファンを公言しておきながら、実は今まで『千と千尋の神隠し』という作品を一本通して観たことがなかった。
もちろん何度となく地上波で放送されているので、その度にチラ見はしていた。
そのチラ見したシーンを組み合わせれば作品全体の8割程度は観ていると思うが、つまみ食いをしただけでは作品をフルで味わったとは言えない。
 
公開当時はジブリという制作スタジオを意識して映画を観ていなかった気がするので、本作を映画館で観ることをせず、また実家暮らしの長かった僕は家族から干渉されるのが嫌で家庭内では映画作品を観るということをあまりしてこなかった。
 
そんなわけで本作を観ないまま今まで来てしまった。名作の誉れ高い本作を未視聴なことがジブリファンとしてなんとなく恥ずかしかったので、今回の放送を機に鑑賞してみることにした。
 
公開当時の僕にとってはあまり画が好みではない作品という程度の認識だったが、流石は国内外で多大な功績を残した作品。じっくり観てみたらとても素晴らしい作品だった。
 
センスオブワンダーに溢れ、活劇としての痛快さと舞台の不可思議さ・不気味さが高度に混じりあっていたのが印象的。
と、『千と千尋の神隠し』についてこれから持論を展開しても良いのだが、今回は『千と千尋の神隠し』と、その地上波放送に合わせて放送された『透明人間』という作品について合わせて述べていきたいと思う。というか、『千と千尋の神隠し』の後に『透明人間』を持ってくるという構成の妙に対して語りたい。
 

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端的に言ってこの番組構成を考えたテレビ局の方は天才だというのが今回の記事の主張の本質だ。
 
『千と千尋の神隠し』で重要なファクターとなるのが「名前」だ。
あの世界に紛れ込んだ千尋は湯婆婆との雇用契約を結ぶ=あの世界にいることの許可を得る際、「千」という名前を与えられる。しかしそれは代わりに「千尋」という本来の名前を奪われてしまうということでもあった。
『千と千尋の神隠し』は極々簡単に言ってしまえば主人公の千尋が異世界に紛れ込み、ハクという協力者を得、自己成長を成し遂げて現実世界へ戻る物語だ。
しかし僕は本作を、千とハクが本当の名を取り戻すことで本当の自分をも取り戻す作品であると理解している。
 
「名前」とはある物体を区別するための単なる記号だ。
その単なる記号が何故そんなに大切なのかということに対してはキリスト教がその答えを持っている。
神やイエス・キリストは誰かに呼びかける際、その者の名を呼ぶ。
また、聖書では子が親を呼ぶ際は「父さん」「母さん」のような尊称を用い、親が子を呼ぶ際はその名や「子」という言葉を用いるのが一般的だ。
聖書には数多くのたとえ話が出てくるが、その中で最も有名な話の一つがルカによる福音書に出てくる「放蕩息子の例え」ではないだろうか。
この話はキリスト教の考える4つの愛、すなわち「エロース」、「フィリア」、「ストルゲー」、「アガペー」を教える際の教材としても使われるが、「名前」を呼ぶことの大切さを語る際にも引き合いに出されることが多い。
以下にその箇所を引用する。
 
ルカによる福音書 15章11節~32節
11 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。 
12 弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。 
13 何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。 
14 何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。 
15 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。 
16 彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。 
17 そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。 
18 ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。 
19 もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』 
20 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。 
21 息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』 
22 しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。 
23 それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。 
24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。 
25 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。 
26 そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。 
27 僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』 
28 兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。 
29 しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。 
30 ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』 
31 すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。 
32 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」
 
僕はキリスト教系の大学に通っていたのでこのたとえ話を何度も聞いた。
(検索してみたところ中部学院大学のHPで「名前を呼ぶ神」というタイトルで記事が出ていたので引用する。興味があればあとで読んでみてほしい。)
 
このたとえ話の解説でよく語られるのは、放蕩の限りを尽くして家に戻ってきた弟に対する兄の呼び方だ。
30節「ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。」
兄は怒りのあまり弟を「あなたのあの息子」と呼んでいる。
さらには29節では父を「お父さん」という尊称で呼んでいたにも関わらず、30節では「あなた」と呼んでいる。
これは「名前や尊称で相手を呼ばない」ことによって相手の存在を否定しているのだ。
 
「名前」は何かの存在を指し示す記号でしかないことはすでに述べた。
しかし同時に、本人にとってその名を呼ばれることは他者から自己の存在を認めてもらったことの証左だ。
(喧嘩をした時、相手の名前を呼ばずに「テメエ!」と言ったり、「ふざけんなカトちゃん!」とあだ名で呼ばずに言わずに「ふざけんな加藤!」というのはこれと同じ原理だと思う。相手の名前を呼ばない、尊称や敬称、愛称で相手を呼ばないことで、相手から距離をとり、その存在を否定したいという意図が働いている)
 
『千と千尋の神隠し』冒頭で「千尋」という名前を奪われ、新たに「千」という呼び名を与えられた彼女は、あの世界に紛れ込んで最初の夜を明かした翌朝、ハクに「本当の名」である「千尋」と呼びかけられてもすぐには反応できなかった。
本来の名前を奪われたことで自己認識が希薄になってしまったのがその理由だろう。
 
本作の白眉とも言えるシーンが、川の神であるハクの「本当の名」を告げるシーンだ。
かつて川に落ちたことのある千尋は、その川の中で、今目の前にいる龍の姿を見た。千尋の心の中にしまいこまれた記憶。心の檻の中からその記憶を呼び起こすことができた千尋はハクに語りかける。

千 :ハク、聞いて。お母さんから聞いたんで自分では覚えてなかったんだけど、私、小さいとき川に落ちたことがあるの。
その川はもうマンションになって、埋められちゃったんだって……。

でも、今思い出したの。その川の名は……その川はね、琥珀川。あなたの本当の名は、琥珀川……

すると龍に姿を変えたハクは光を放ち、人間(神)の姿を取り戻す。

ハク:千尋、ありがとう。私の本当の名は、ニギハヤミ コハクヌシだ。
千 :ニギハヤミ……?
ハク:ニギハヤミ、コハクヌシ。
千 :すごい名前。神様みたい。
 
ここで注目すべきは、千尋もハクも、自分の「本当の名」を他者からの呼びかけによって取り戻しているという点である。いうまでもなく、千尋にとってはハクが、ハクにとっては千尋が自分の本当の名を呼びかけてくれたことが、自分を取り戻すトリガーになっている(千尋が自分の持ち物に名前を書いていて、それを読んだことで自分の「本当の名」を思い出すという構造になっていない点に注目)。
この本当の名が湯婆婆の呪縛を逃れるためのキーとなっているというギミックは本作においてかなり重要なのだ。
 
『千と千尋の神隠し』の5年後に公開された『ゲド戦記』は宮崎駿が監督を務めなかったことで原作者ル=グウィンと一悶着あったのも記憶に新しいが、この『ゲド戦記』で重要なファクターとなってくるのが各キャラクターの持つ「真(まこと)の名」だ。
この作品の登場人物は「真の名」を持ち、相手に魂を掌握されてしまうことから「真の名」をみだりに明かしてはいけないとされている。(例:ゲド本人にとって「ゲド」は「真の名」であり、通り名は「ハイタカ」である)
原作者ル=グウィンに映画化の許可を求めるくらいに宮崎駿はこの作品を高く評価しているので、『千と千尋の神隠し』の「本当の名」に関わるギミックの構想に『ゲド戦記』の「真の名」が関わっていたことは容易に想像できる。
 
『千と千尋の神隠し』の作品世界で「本当の名」は人間(あの作品世界では神様も)が自己の存在を認識する上で最も重要な要素であり、湯婆婆は他者の「本当の名」を奪って別の名を授けることで、他者を使役する能力を発揮する。
 
また、キャラクターは「本当の名」を他者に呼びかけられることで失った自己の認識を取り戻すことができる。
「本当の名」によって他者に自己の存在を承認された時、人は初めて世界に正しい姿で存在できる。それが『千と千尋の神隠し』と言っても良いだろう。
 
さて、ここで話を『透明人間』に移してみよう。
本作の序盤、透明人間の主人公の職場で女性の同僚がペンを落とす。主人公はそれを拾い、同僚にペンを渡そうとするが、女性はそれに気付かず自分でペンを拾う。
これだけでは『透明人間』というタイトルが、「存在感のない人間、あるいは周囲から無視される人間」を比喩しているだけなのか、「周囲から視覚によって知覚できない本当の意味での透明人間」なのか判断がつかないが、その後のコンビニのシーンなどですぐに後者であるとわかる。
 
視覚によって周囲の情報のほとんどを得ている健常者には知覚できない主人公。
しかし盲導犬を連れた盲いの男性や、彼が連れている犬には主人公の存在を認識できた。
 
そして彼らと別れた後、主人公は坂道を転げ落ちるベビーカーを目にし、赤子を助けるために疾走する。
雨の中透明人間がスクーターを駆るシーンの疾走感はアニメーション表現としてとても新鮮だったし、自己の存在を他者により認識してもらえない(=存在を無視されている)彼が誰かを救うために全力を尽くす様子は、その健気さに大きく感情を刺激される。
そして赤ちゃんを救うことに成功した透明人間の頭部を透過して見える赤ちゃんの笑みを最後に、作品は幕を閉じる。
 
盲目の男性、犬、赤子と、健常者の成人とは違う知覚器官で世界を「見て」いる者からしか存在を認識されていない主人公からは、「目で見る世界だけが真実ではない」というメッセージを感じることもできるが、この作品は「他者によって存在を認識されて初めて人は生きて行ける」というメッセージを内包しているのではないかと僕は思った。
 
そんな大それたことを言わずに、「たとえそこに存在していても、誰にも知覚されていなければ存在していないのと同じ」と言い換えをしてしまっても良いかもしれない。
道端に石ころが転がっていても、その道を歩くA君がスマートフォンを操作していてそれに気付かなければ、その石ころは存在していないに等しい。
歩きスマフォをしていたA君がその石ころに躓いて、石ころを認識して初めて、A君の世界に石ころが存在したことになる。
 
『千と千尋の神隠し』が(本当の)名前を呼ぶことによって他者を知覚し、他者から(本当の)名前を呼ばれることによって真にこの世界に存在できるというメッセージを内包している作品であったのに対し、『透明人間』は動物が生来持つ知覚器官によって存在を認識されて初めて、人は世界に存在を許されるというメッセージを持った作品であると言って良いだろう。
前者はある人間の存在をより観念的に、後者はより肉体的に捉えているのだ。
そんなわけで、この二作品は人という存在のあり方について異なったアプローチをしているものの、どちらも「人は他者によって自分を認識・知覚されて初めて存在しうる」という共通のメッセージを持っているのだ。
 
『透明人間』を製作したのはスタジオポノック。
スタジオジブリ出身のクリエイターが多く在籍するスタジオとして知られている。
過日の『金曜ロードショー』の番組は、そんなスタジオのつながりによって作られた二作品同時放送の構成であると考えた人も多いだろうが、僕はそれ以上のメッセージを感じた。
 
この構成を考えたスタッフは天才的に冴えている。
ブロックバスタームービーばかりチェックしていては気づくことができない、とても素敵な作品と出会うきっかけをくれた『金曜ロードショー』とそのスタッフに、僕は最大限の感謝と賛辞を捧げたい。
 
 
 
(『透明人間』単体の感想)
 
主人公の透明人間という外見的特徴や、消火器を持っていないと宙に浮いてしまうという特徴は、存在感の薄さ・存在(社会的価値と言い換えても良いかもしれない)の軽さのメタファーではないかと思う。
主人公の暮らしぶりからは就職を機に地元を出てきて一人暮らしをしていて、恋人もいない若い男性という像が思い浮かぶ。
そんな日本中どこにでもいそうな存在がある日突然消えてしまったら……
おそらく職場をはじめとした周囲の人間は数日間は悲しむだろう。しかしすぐに”彼”のいない日常に慣れてしまう。
”彼”の存在は、実は周囲の人間にとってどこまでも薄く、軽いものだから。
でも視聴者はすぐに、どこまでも存在感の薄い、存在の軽い”彼”が、実は自分自身なのではないかという疑問に苛まれる。
このまま消えていってしまってもおかしくない彼をこの世に結び留めたのは、彼という存在を認めてくれた(知覚してくれた)盲目の老人と彼の盲導犬の存在、そして小さな命を救おうとする彼自身の意思だったのだ。
短いながらもメッセージ性に富んだ良い作品だと思った。