映文計

映画と文房具と時計、好きなものから1文字ずつもらって「映文計」。映画のことを中心に日々綴っていきます。

“JOKER”/『ジョーカー』という、意地悪でひたすらに怖い映画

10月4日(金)

公開初日に“JOKER”/『ジョーカー』を観てきた。

 

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面白いとか感動したとかそう言った感想を超えて、ただただ「怖い」と感じる映画だった。

どんな感想を抱くにせよ、兎にも角にもただ「凄い」映画なので、これから鑑賞する人は心して劇場に足を運んで欲しいと思う。

※以下、ネタバレを含む※

 

【ゴッサムシティが生んでしまったジョーカーという狂人】

ティム・バートン版ではジャック・ニコンルソンが、クリストファー・ノーラン版ではヒース・レジャーが、DCEUではジャレッド・レトが演じてきたジョーカーはバットマンやDCコミックスという括りを超え、全てのアメリカンコミックスの中で誰もが認める「最も有名なヴィラン」と言える存在だろう。

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しかし、本作で描かれたジョーカーは僕たちの知るジョーカーではないかも知れない。

 

僕が本作を鑑賞して「怖い」と思った要因は、どこからが現実でどこからが妄想なのかの線引きがとにかく曖昧に描かれているからだ。

 

ある作品を鑑賞している時、僕らにとってその作品の世界で起きている事象は、自分たちが観ている映像と聴いている音声から与えられた情報が全てだ。

自分が観ていた映像が登場人物の誰かの妄想だったとしたら、僕たちは何を信じれば良いのだろう。

 

例えばマンガを読んでいるとき、僕らはコマの外側が黒く塗られているのを観ると「ああ、このシーンは回想が繰り広げられているんだな」と気付く。

 

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出典:『PSYREN -サイレン-』5巻P91 コマの周りの空間が黒く塗られることで過去の描写に映ったことが一目でわかる

 

マンガやドラマで夢や妄想のシーンが展開されるとき、登場人物が我に返る(多くは眠っている状態から覚醒する)様子が描かれることで、僕らは作品の中で描写されている様子が空想の世界から現実の世界に引き戻されたことを知る。

 

本作は現実と妄想の移行がシームレスに展開されすぎるが故に、虚実の境界がとことん曖昧なのだ。

 

・序盤、母親とテレビを観ているアーサー(ホアキン・フェニックス)がマーレイ(ロバート・デ・ニーロ)の主演するテレビ番組で、観覧席からステージに上がるよう呼ばれる描写

・アーサーが同じアパートに住むソフィー(ザジー・ビーツ。『デッドプール2』の幸運がスーパーパワーのXフォースメンバー、ドミノ役の人!)と逢瀬を重ねたり、母親を見舞ったりする描写

 

これらがアーサーの妄想の中で繰り広げられている物語だあるとはすぐに気づくことができなかった。

 

夜、雨に濡れたアーサーがソフィーの部屋を訪ね、ソファに腰掛けている。

それに気付いて驚きの声を挙げるソフィー。「あなたアーサーよね?部屋を間違えているわよ」(大意)

このやりとりを目にしたときの恐怖たるや……

そう、アーサーのことを可哀想だとか気の毒だとか思うよりも先に、僕は「怖い」という感想を真っ先に抱いたのだ。

 

市の福祉課の女性担当者との面談のシーンで、アーサーは自分が発言した内容を女性職員は何も覚えていない、自分に対する興味など微塵もないと憤る。

 

夢と現がごちゃ混ぜになってしまったアーサーの言葉だ。

この「自分が発言した内容」というのが実際にアーサーから女性職員に語られていたのかも疑わしい。

 

ソフィーの部屋に入って行ってキスをしたのはアーサーの妄想。

アーサーに尾行されたことを気付いてソフィーが部屋を訪ねてくるのも彼の妄想。

それどころかアーサーがソフィーを尾行したことすら彼の妄想かも知れないし、もしかしたら冒頭エレベーター内でソフィーと一緒になったことすら彼の妄想の可能性がある。

 

僕はニブい人間なので最後明かされるまでソフィーとアーサーの関係が妄想だとは気付いていなかったが、シングルマザーの女性と交際した経験のある友人は、「シングルマザーであるならば家デートが基本となるはず。ここまで子供が出て来ないのはあり得ない」と早々に妄想であることを看破していたらしい。

僕も子供が出て来ないことは気になっていたが、物語の都合上捨象された要素なのだろうと深く考えなかった。

家デートが基本となるという視点は完全に欠落しており、人生の経験値の違いを見せつけられた形だ。

 

また、アーサーと同じく母親(義母)のペニーも妄想型の精神疾患を患っているため、その発言が偽りであるとされた「アーサー・フレックはペニー・フレックとトーマス・ウェインの隠し子である」という話があった。

しかし写真の裏の「T.W」のサインの存在から、全てを偽りであると片付けることは出来ない。本当は実際にトーマス・ウェインとペニー・フレックスの子がアーサーで、トーマスはウェイン家の権力でペニーとアーサーの関係を養子縁組であるということにしてしまった可能性もある。一方であの写真の裏の文言を、精神疾患を抱えたペニー自身が書き記という可能性も否定しきれない(友人談)。

この辺りは怖いと感じると同時に意地が悪いと思ってしまう部分でもある。

 

本作のジョーカーは自らの快楽のために犯罪行為に手を染めるわけではない。

環境が作り出してしまったヴィランであると言えるだろう。

 

職場の同僚から偶然拳銃を手にしてしまったアーサー(ふと、このシーンもアーサーの妄想かも知れないと気付いた。アーサーが自ら拳銃を買い求めた可能性も捨てきれない……何だこの映画は……)は地下鉄で遭遇したウェイン産業の証券マン三人を撃ち殺してしまう。

 

この事件は偶然起こってしまったもであるが、マスメディアはこれを「下層皆による上流階級市民への反逆である」と意味づけをしてしまった。

 

アーサーからすれば全く意図せずに起きてしまった事件。

その事件に対し、マスメディアは文脈の読み違えから間違った意味づけをしてしまい、またゴッサムシティの住民は興奮を以てこの事件を歓迎してしまった。

 

人は誰も神の視点は持ち得ない。我々が「事実」と信じているものは、常にある事象を一つのものの見方、切り取り方から読み取った「真実めいたもの」でしかない。

にも拘わらず、人はとかく自分の考えやものの見方を絶対視しがちだ。

マスメディアによる事実の読み違えと、それに扇動されて道化の私刑執行人を時代の寵児として迎え入れてしまう市民は、マスメディアの報道とそれを信じる人間への痛烈な皮肉のように思えてならなかった。

 

そしてその皮肉は、夢と現の区別もつかないまま展開されるこの映画を観せられている視聴者そのものにも向けられたものではないだろうか。

これが僕が本作に怖さと意地悪さを感じた最たる部分だ。

 

【「名」を与えることの罪】

はてなブログに引っ越して一番最初に書いたのが『千と千尋の神隠し』と『透明人間』の記事だった。

eibunkeicinemafreak.hateblo.jp

 

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前者において物語の重要なファクターとなるのは「本当の名」だと書いた。

千とハクが元々持っていた「本当の名」を湯婆婆に奪われ、それを取り戻す物語が『千と千尋の神隠し』だ。

 

一方の“JOKER”に目を向けてみよう。

“JOKER”は、何者でも無かったアーサーが彼の憧れたコメディアン、マーレイに名前を与えられることで、ジョーカーというヴィランが生まれてしまう瞬間を描いた作品と言って良い。

 

本当の名を取り戻すことで本当の自分を取り戻した千とハクに対して、マーレイによって名前を(同時に、マスメディアによってその行動に意味づけを)与えられたことで「ジョーカー」という存在が生まれてしまった。

アーサーという個人から生まれ出でたと言うより、周囲の環境が意図せずに産み落としてしまった存在がジョーカーだ。

そのことの罪深さを考えると何だか心が苦しくなってくる。

 

【アーサーの欲求】

先日友人と話していて「アーサーの承認欲求」という言葉が出てきた。

僕はアーサーの求めていたものはまさしく他者からの承認だと思っているが、同時にそれは今日的な意味における「承認欲求」という言葉で言いあらわせるものではないとも感じている。

彼が求めていたのは(今日的なコンテクストにおける)承認欲求よりももっと原初的で、単純に存在することを容認して欲しいと言う思いだったり、「ここにいて良いんだよ」と言って欲しいと言う思いだったり、そんなプリミティヴな欲求では無いかと思う。

日常生活を送るフレック親子にとって、世間はあまりにも冷たい。

 

『新世紀エヴァンゲリオン』最終話 “世界の中心でアイを叫んだけもの”のラストにこんなセリフがある。

 

シンジ:僕はここにいてもいいのかもしれない。
シンジ:そうだ、僕は僕でしかない。
シンジ:僕は僕だ。僕でいたい!
シンジ:僕はここにいたい!
シンジ:僕はここにいてもいいんだ!

 

アーサーは「僕はここにいてもいいんだ!」と気付くことが出来ず、自分がアーサー・フレックであることを否定してしまった男なのだと思う。

生きづらい世の中にでアーサーという存在から脱却し、「ジョーカーーというペルソナを被ってしまった男が本作におけるジョーカーなのだ。

 

【走り回るジョーカー】

ジャック・ニコルソンもヒース・レジャーもジャレッド・レトも、歴代バットマン映画作品に登場するジョーカーはあまり走り回っているイメージが無い。

 

本作ではジョーカーを名乗る前も後も、アーサーの走るシーンが多かったのが非常に印象に残った。

 

【ダークナイトとの比較】

アメコミ原作映画の傑作『ダークナイト』。

この作品の冒頭にはバットマンの真似をして裏取引を止めようとするヴィジランテが登場する。

自分の格好を真似て銃火器をぶっ放す彼らをブルースは良しとせず、縛り付けてしまうが、あの世界では市井の人々は善をなそうとバットマンを模倣する。

終盤の二隻の船と爆弾のスイッチのエピソードを見ても、この作品は人間の善性を信じて作られた作品のように感じる。

 

一方の『ジョーカー』では、マスメディアが貧困層の代弁者として担ぎあげてしまったことも手伝い、人々はジョーカーというアイコニックな存在をマスクをつけることで模倣し、崇めてしまう。

「人の命を奪う」という悪行を称えてしまう『ジョーカー』世界のゴッサム市民のメンタリティと、『ダークナイト』のそれとは好対照をなしていると言えるのではないだろうか。

 

 

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