映文計

映画と文房具と時計、好きなものから1文字ずつもらって「映文計」。映画のことを中心に日々綴っていきます。

“DON'T LOOK UP”/『ドント・ルック・アップ』を観た

2022年1月9日。

『ドント・ルック・アップ』を鑑賞した。

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現在住んでいる富山県では公開館が無かったため、自宅での鑑賞となってしまったのが残念。


「コロナ下でこそ観るべき作品」 と評される映画は幾つかあるが、本作はその筆頭と言っても良いだろう。

 


専門家が科学的見地に基いて隕石の接近を叫んでもそれを信じない人々の姿は、これだけ世界中で感染者も死者も出ているのに「新型コロナウイルスは存在しない!」、「陰謀だ!」と、 その存在を否定する人々を暗示しているのだろう。

一方で新型コロナウイルスの存在を否定する「彼ら」は、 本作を鑑賞していてもそのことに気づきもしないのではないか、とも思ってしまった。


人間、自分が信じたいもの以外は知覚することができない。これは 2016年公開の『シン・ゴジラ』 の国会前の大群衆がシュプレヒコールを上げるシーンで、「 ゴジラを倒せ!」と叫ぶ人もいれば「ゴジラを守れ!」 と叫ぶ人もいたにもかかわらず、 観客の多くがその片方の声しか聴き取ることができていなかったと、いう現象からも明かだろう。


そして研究成果と切り離された形で「セクシーな研究者!」 としてマスコミに取り上げられるランドール(ディカプリオ)というのも妙なリアリティを感じた。

現実世界で私たちが今まさに直面している新型コロナウイルスも、紛れもなく人類史における脅威だが、「巨大隕石の接近」 という人類どころか地球上の大半の生命が死滅しかねないような一大事に於いても、人類は団結することが出来ず、 世紀の発見をした研究者のルックスを話題に盛り上がる程に愚かなのだ。

 

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映画の中だから笑って観ることが出来るが、コロナが日本で蔓延し始めた頃に「大阪府知事がイケメン!」 などと、コロナ対策とは関係のないところで盛り上がる日本人の姿を見てし まっただけに、 作中で起きていることは現実と地続きなのだと恐怖を覚えた。


本編だけでも一本の映画として十分に面白い作品だが、 本作の白眉は何と言っても本編終了後の数分間だろう。

 

地球を離れ隕石衝突を免れたごく一部の人間は長い旅路の果て、生存に適した環境を発見。人類は遂に未知の惑星に降り立つ。

コールドスリープから醒め、宇宙船から下りてくる人々。しかし列を成すのは老人、 老人、また老人。

「人類という種の保存」を目的としたテラフォーミングであれば、 若く健康な肉体を持つ若者を地球脱出のメンバーとして選出するのが最も適しているのは誰にとっても明かだ。しかし、 世界中の富と権力の中枢にいるのは悉く老人達。

「権力者が隕石衝突の厄災を逃れるため」という、 彼らにとって目の前の目的を果たすためには、人類という種の存亡すら切り捨てられるのだ、そしてこれはスクリーンの向こう側の「笑える話」 などでは決してないのだ、現実に隕石衝突の危機が訪れたとき、 人類は同じ道を辿る可能性があるのだ、と思うと寒気がする。


そして「人類の人口の1%の人々が世界中の富の約4割を独占している」 というニュースを思い出したとき、視聴者の殆ど全員が、 映画と同じ境遇に立てば、 地球と運命をともにすることになる側でしかないのだと気づかされる。 これは心中穏やかではない。

しかも隕石衝突を回避するチャンスがあったにもかかわらず、 ある企業のトップの一言で人類は千載一遇の機会を無駄にしてしまう。

ある特定の企業が、 時に国家すら動かすパワーを持つことを我々は知っている。 言うまでもなく、この一連のシークエンスはGAFAに代表される一部の企業に富や技術が集約されることへの警鐘だろう。

本作で示された警句を無視することなく、 僕ら一人一人が権力の暴走を監視するウォッチメンとしての役割を果たさねばなるまいと強く感じた一作だった。

 


最後に一言。

大傑作“GRAVITY”に対し『ゼロ・グラビティ』 という邦題をつけた配給会社を僕は未だに許すことが出来ないが 、本作に対してNetflixが『ルック・アップ』 という邦題をつけられなくて良かったな、とつくづく思いましたとさ。

 

あと、マーク・ライランスが本作で演じた役もその話し方も『レディ・プレイヤー・1』のジェームズ・ハリデーを彷彿させるもので、そこも個人的に面白かった。