
時計について語る言葉を持っている人間は詩人である。
最近時計について語る文章を読んでいて読んでいて痺れたのは、時計メディア「パワーウォッチ」でかつて森本レオさんがインタビューに答えて言ったこの文章。
「結局、時間というのは『壮大なフィクション』だと思うんですよ。だって、宇宙の果てまで地球と同じ1日24時間の流れが続いているとは思えないですから。そういう意味で、一種のフィクションなんです。でも、同じフィクションの要素を持つ『神様』と違い、時間はなかなか疑いにくい。無神論者はたくさんいても、無時間論者はあまり見かけませんもんね(笑)。でも神様というのが、罰せず救わずただ見てるだけ、の存在だとしたらまさに『ザ・時間』こそが神様じゃないですか。ということはつまり、時計というのは一番ちっちゃな神殿なんですよ。とってもリーズナブルなね」
腕時計は何処かしら神聖な空気を纏っていると思う。
それは、かつて豊かでなかった頃の日本の、腕時計を「一生に一本」のものとして大事にしていた頃の空気感を、知らず知らずの内に僕が祖父母から引き継いでいるからかも知れない。
しかし、時計が「時という神を戴く小さな神殿である」という森本レオさんの意見に触れて、僕が腕時計に対して抱くある種の神聖さの正体を見た気がした。
日本の神社には御神体として鏡が祀られていることが多い。
生命の源とも言える「太陽」、そして「光」。
光を留め置くことが出来ない時代、光の象徴として人々は鏡を祀っていたのだ。
今や光はLEDなどの手段でいくらでも好きな場所に留め置くことが出来るようになった。
しかし、未だ人類は「時間」を何かに閉じ籠めることはできていない。
これから先も、僕らが3次元の世界に生きている限りそんな手段は無いのではないかと思う。
それを思えば、なるほど、時間とは「光」と比べてはるかに捉えどころの無い、神の如き概念であると言えるかも知れない。
時間という神を信仰する宗教があるのなら、御神体として時計ほど相応しい存在はない。
……と、ここまで書いてきて、僕は時計を御神体として捉えている一方、森本レオさんは時計を「神殿」と言っていることの相違に気が付いた。
僕の捉え方は時間を司る時計を神とも等しき存在と捉えている一方、時計を「神殿」と評するレオさんは、時計を「時間と言う概念を閉じ込める器」と捉えているように感じられる。
感動した表現について考えていたら、その表現を生み出した人と自分の物事の捉え方の違いにも気付いたのだった。