映文計

映画と文房具と時計、好きなものから1文字ずつもらって「映文計」。映画のことを中心に日々綴っていきます。

2019年の映画を振り返る

今回も年内に記事をアップすることができなかったが、そんなこと気にせず2019年の映画を振り返っていこうと思う。

 

2019年の映画鑑賞において大きく変わったことは、鑑賞した各作品のFilmarksをつけ始めたこと。

いままでもこのサービスは利用していたものの、鑑賞するたびにレビューを書くということはしていなかった。

映画を一作鑑賞するごとにFilmarksでスコアをつけるというのは映画好きの友人がやっていたので真似をしてみた。

年間ベストを決める際にも役立つだろうという予想もあってのことだ。

全部に感想は書き込めていないけど、振り返りが少しは楽になった……のだろうか。

実際この時点でトップ3以外は順位が固まっていないのでFilmarksスコアを参考に順位付けをする予定だ。

filmarks.com

 

さて、僕が観た2019年に観た映画作品は以下の通り。

 

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※タイトル前に○の付いた作品は2017年以前に公開された作品。

 ○“The Remains of the Day”/『日の名残り』

・“CREED”/『クリード 炎の宿敵』

・“GLASS”/『ミスター・ガラス』

○“BEING THERE”/『チャンス』

○“PULP FICTION”/『パルプ・フィクション』

・“MERY POPPINS RETURNS”/『メリー・ポピンズ リターンズ』

・“ONCE UPON A TIME IN HOLLYWOOD”/『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』

・“AQUAMAN”/『アクアマン』

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・“FIRST MAN”/『ファースト・マン』

・『劇場版シティーハンター 新宿PRIVATE EYES』

・“THE FRONT RUNNNER”/『フロント・ランナー』

・“SPIDER-MAN INTO THE SPIDER-VERSE”/『スパイダーマン:スパイダーバース』

・“ALITA BATTLE ANGEL”/『アリータ:バトル・エンジェル』

・“THE FABOURITE”/『女王陛下のお気に入り』

・“GREEN BOOK”/『グリーンブック』

・“THE MULE”/『運び屋』

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・『コードギアス 復活のルルーシュ』

・“CAPTAIN MARVEL”/『キャプテン・マーベル』

・“THE GUILTY”/『THE GUILTY ギルティ』

・“BUMBLEBEE”/『バンブルビー』

○“CLOSE ENCOUNTERS OF THE THIRD KIND”/『未知との遭遇 ファイナルカット』

・“VICE”/『バイス』

○『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』

○『マクロスプラス MOVIE EDITION』

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・『名探偵コナン 紺青の拳』

・“SHAZAM!”/『シャザム!』

・“AVENGERS ENDGAME”/『アベンジャーズ:エンドゲーム』

・“DETECTIVE PIKACHU”/『名探偵ピカチュウ』

・“GODZILLA KING OF MONSTERS”/『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』

・“SPIDER-MAN FAR FROM HOME”/『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』

・“TOY STORY 4”/『トイ・ストーリー4』

・“DARK PHOENIX”/『X-MEN:ダーク・フェニックス』

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・『プロメア』

・『ミュウツーの逆襲 EVOLUTION』

○“ROMAN HOLIDAY”/『ローマの休日』

・“ONCE UPON A TIME IN HOLLYWOOD”/『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』

・『天気の子』

○“BLADE RUNNER”/『ブレードランナー』

○“DEATH IN VENICE”/『ベニスに死す』

・『見えない目撃者』

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○『砂の器』

・“JOKER”/『ジョーカー』

○“A CLOCKWORK ORANGE”/『時計仕掛けのオレンジ』

・『蜜蜂と遠雷』

・“JOHN WICK: CHAPTER 3 - PARABELLUM”/『ジョン・ウィック:パラベラム』

・“La vérité”/『真実』

○“Léon”/『レオン』

・『ひとよ』

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○“THELMA AND LOUISE”/『テルマ&ルイーズ』

・“FROZEN Ⅱ”/『アナと雪の女王2』

○“WEST SIDE STORY”/『ウエストサイド物語』

・“STAR WARS: THE RISE OF SKUWALKER”/『スター・ウォーズ:スカイウォーカーの夜明け』

○“THE SOUND MUSIC”/『サウンド・オブ・ミュージック』

・『Gのレコンギスタ 行け!コア・ファイター』

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70本62作品(半券を紛失した作品もあり鑑賞本数はFilmarksを参照した)。

2018年は81本58作品だったことを考えると、2019年は例年と比べて同じ作品を鑑賞する回数が減った気がする。

eibunkeicinemafreak.blog.fc2.com

(fc2ブログから過去のエントリをそろそろ引っ越ししないといけないよなぁ)

 

62作品中15作品が旧作だったため、2019年度公開作品は47本。

この47作品からベスト10を選出していく。

 

 

第10位:“BUMBLEBEE”/『バンブルビー』

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作品自体の出来はそこそこで特筆すべきものはそれほどないかなぁという印象。

だが、「エイリアン」という立ち位置のトランスフォーマーと人類の出会いを描いく作品としては非常に良かったのではないだろうか。

トランスフォーマー1作目ではサムが状況に流されるままビーやオプティマスといったトランスフォーマー達と出会い、戦いに巻き込まれてしまうが、本作ではエイリアンであるビーと主人公のチャーリーの心の交流が非常に丁寧に綴られており、ハートウォーミングなストーリーに仕上がっていた。

 

本作の白眉ともいえるシーンはなんと言っても序盤のセイバートロン星の戦い。

YouTubeのタカラトミーチャンネルで初代トランスフォーマーを見ておいて良かったと思えるほどG1ルックなトランスフォーマーたちの活躍を見ることができた。

 

サウンドウェーブの「イジェ〜クト」も完璧だったし、そこから飛び出すラヴィッジも完璧そのもの!

スタースクリームのトライアングルなエイリアンジェットも最高だし、オプティマスの如何にも地球上のトラックという感じのビークルモードも最高!

序盤は兎に角褒める箇所しかないくらい。

中盤以降の冗長さは目立ったものの、マイケル・ベイ以外の監督が撮る新たなトランスフォーマーとして最高の船出だと感じさせる序盤だったと思う。

 

バンブルビー大好き悠木碧さんがシャッター姉さんのCVを努めたことも非常に感慨深い。

 

彼女が3Aのバンブルビーの高クオリティフィギュアを自宅に迎え入れたことも知っているし、『バンブルビー』の作中においてメインヴィランの声優を務めて非常に喜んでいたことも知っている。

Twitter界隈では彼女がメインヴィランの声優を務めたと知った時の衝撃も大きかったような気がする。

 

正直なところ本作以上に映画としてよくできた作品は昨年観た中にあったが、自分は劇場版トランスフォーマーというコンテンツが好きなんだなぁということに気づかせてくれたこともあってのランクイン。

最初はあの変形シークエンスに対してアレルギーもあったんだけどなぁ。慣れとは怖いものだ。

 

 

第9位:“SPIDER-MAN FAR FROM HOME”/『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』

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正直ランキングに入れるかどうか迷ったが、今後のMCUのさらなる躍進に期待してのランクイン。

スパイダーマンはサム・ライミ版、アメイジング・スパイダーマン、そして現在MCU体制化におけるトム・ホランド版スパイダーマンと、リブートスパンが短すぎるという問題があるが、そのスパンの短さを最大限に活かして「オリジンストーリーを描かない」という英断を下した前作『ホームカミング』。

オリジンストーリーを描かないということはそれ即ちベンおじさんの死が描かれないということで、トム・ホランドの演じるピーターはベンおじさんとの別れが描写されないままヒーローとなった。

あるコンテンツに対するファンの意見が鮮度を持って観測できるのが現代SNS社会のいいところだと思うが、「トニー・スタークとの別れを描いた『エンドゲーム』、トニー亡き後の世界を生きる『FFH』の2作品を通じて“おじさんの死”というピーター・パーカーのオリジンストーリーを描いたMCUはすごい」という趣旨の意見を目にして思わず膝を打った。

 

トニー・スタークという巨大な存在を失った世界、そしてピーター。

「トニーの後を継いでアベンジャーズをリードするヒーローになる予定は?」そんな質問を受けてチャリティ・イベントの会場を逃げるかのように立ち去ってしまうピーター。

高校生の少年が背負うには余りにも重すぎる責任。

そんな悩める彼のもとに現れたミステリオことクエンティン・ベックに亡きトニーを重ね、イーディスを託してしまうのも無理からぬことだろう。

 

また、同年に『スパイダーバース』というマルチバース作品が公開されたタイミングでミステリオがマルチバースを語る点も、メタ視点が作品世界の理解を助けるというところで非常に面白かった。

 

虚実が入り混じった戦闘シーンも非常に見応えがあった。

疑り深いニック・フーリーが何故ミステリオに騙されてしまったのかというアンサーが用意されていたりしていつものMCUおまけシーンも見応えあり。

 

J・ジョナ・ジェイムソンの登場、そして衝撃の報道内容という(その配役も含めて)完璧なクリフハンガーで次回作への繋ぎ!

アベンジャーシリーズがひと段落してしまったMCUだが、今後も見逃せない!

 

 

第8位:“GODZILLA KING OF MONSTERS”/『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』

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「ミリー・ボビー・ブラウンちゃんが出演するとはいえ、前作があの出来だったから心配だなぁ」と思っていたらとんでもないものを見せられてしまった。

なんと怪獣愛に溢れた作品なのだろう。

 

ゴジラの再起動方法が雑だとか、芹沢博士が死なない方法もあったのではないかとか、ケチを付けようと思えばいくらでも思い浮かぶが、ドハティ監督の怪獣愛でその辺りのことはどうでもいいかなぁと思ってしまう。

ただ、モスラとゴジラの関係性に関してだけは僕は受け入れがたいものがあるかな。

「ゴジラを模した模様が羽に描かれたモスラ」は田舎のヤンキーが若気の至りで恋人の名前をタトゥーで掘ってしまうような……何ともいえぬアホっぽさを感じてしまった。

 

「ゴマスリクソバード」という最低な愛称が定着してしまったものの、ラドンの扱いが非常に良かったのが印象的だった。

あのきりもみ回転で戦闘機を一網打尽にするシーンは格好良さに声を上げてしまいそうになった。

 

怪獣達が世界各地で同時に目覚めることによる恐怖。その中でも特に恐ろしいキングギドラという存在。そんなキングギドラすら寄せ付けぬ覚醒した怪獣王ゴジラの圧倒的強さ。

歩くMAP兵器のようなゴジラの強さの演出は最高にクールだった。

ただ、バーニングゴジラは僕らVS世代にとっては単なるパワーアップ形態というような軽い扱いをされてしまうと耐えられないものがある。

命を削りながらデストロイアを倒したあの痛々しい姿こそバーニングゴジラであり、断じて単なるパワーアップ形態として描いていいものではない。

 

王として再臨したゴジラの呼びかけに応じた世界各地の怪獣達。

髑髏島で同じく「王」として君臨していたキングコングが登場する次回作はどういった作品になるのか楽しみだ。

 

 

第7位:“GREEN BOOK”/『グリーンブック』

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KFCのコマーシャルムービー(違う

MARVELドラマシリーズ『ルーク・ケイジ』を観てからと言うもの、マハーシャラ・アリの演技に魅せられてしまった。

 

今作においても彼の演技は冴えに冴えていた。

彼が演じたドン・シャーリーと、リップことトニー・ヴァレロンガを演じたヴィゴ・モーテンセンの演技の掛け合いがこの平坦なロードムービーを感動の一作に押し上げている。

 

※Filmarksに書いた感想が鑑賞時に感じた熱を上手く乗せて書けていたので大部分を引用する

 

この作品の素晴らしいところは、マイノリティたる黒人ピアニストのドン・シャーリーに寄り添うトニーが、アメリカ社会のマジョリティのように見えてマイノリティである点だろう。

白人という意味で確かにトニーはマジョリティに属しているが、物語の冒頭から彼の訛りのある英語やスラング混じりの英語が、イタリア系である彼の出自を物語っている。特にトニーがドンの運転手兼用心棒となってハイソサエティな人間たちのコミュニティに身を置くようになってからは、彼の話す粗野ともいえる言葉遣いが今まで以上に目立つ。

マイノリティの側から偏見や差別と戦うドンを間近で見ていたトニー自身が、マジョリティではなくマイノリティであったという構造が、出自も人間性も全く異なる彼ら二人が親友としての友情を育んだことに圧倒的な説得力を持たせているのだ。

 

黒人差別からレストランの使用を認めなかったホテルに対し、ドンは演奏を行わず敷地内を出る。

そのあとに立ち寄った黒人御用達の場末のバーにドン・シャーリーとトニーが入店した瞬間、客たちは二人に奇異な視線を向ける。

黒人しか客のいない店内に白人のトニーが来たことへの疑問は言うに及ばず、その視線は黒人であるにも関わらず燕尾服に身を包んだドン・シャーリーに対しても向けられていた。

劇中、ドンは自身が白人のコミュニティにおいても黒人のコミュニティにおいても孤独であるとこぼすシーンがある。

このドンの抱える孤独を共有できる存在がトニーなのだ。

 

そして旅を終えたクリスマスイブ、トニーを家に送り返したドンは自宅に帰る。

貧しいながらも家族に囲まれたトニーと、物質的には満たされながらも使用人を家に帰してしまうと自分以外は部屋の中に誰もいないドン・シャーリー。この対比からの最後のシーンはとても美しかったし、旅を通して二人の間に芽生えた友情の深さを感じてとても温かい気持ちになれた。

差別に対し暴力に頼らず、自身の尊厳をかけて戦い続けたドン・シャーリーの“Dignity always prevails”というセリフが心に残った。

 

 

第6位:“AQUAMAN”/『アクアマン』

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オリジンを描かないヒーロームービーとしてスパイダーマン:ホームカミングに言及したが、本作はヒーローのオリジンものとして非常にストレス無く観ることが出来る作品。

 

STAR WARS新3部作世代なので、テムエラ・モリソンが父親役にいてくれるだけで著しい加点要素だ。

 

メラとアーサーの交流を描くシーンで凄く好きな描写があるのだが、いつか記事を書こうと思っていたら2019年が終わっていたといういつものあれ。

 

ブラックマンタが格好良かったのでMAFEXが楽しみだ。

ブラックマンタ目線で物語を見てみると、「特殊能力を持たない普通の人間が、アーマーアップすることで人ならざる力を有する父親の敵の超人と戦う」という下手なヒーローよりもヒーローらしいストーリーであることに気付く。

 

次回作にブラックマンタは出て来るのかだろうか。

アクアマンを敵視するバックグラウンドがとてもしっかりしているので、もっと深掘りをして欲しいと思えるキャラクターだ。

 

序盤の潜水艦内での戦闘シーンも良かった。

 

展開がダレて来そうなところで爆発が起こり、集中力をリロードできる親切設計が最高!

ヒーロー映画のデビュー作に良いかも。

 

 

第5位:“ONCE UPON A TIME IN HOLLYWOOD”/『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』

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シャロン・テートの身に起こった凄惨な事件を何も知らぬまま鑑賞。

その後wikipediaで事件の概要を勉強してから二度目を鑑賞した。

 

僕はタランティーノ監督作品を観て頭部を鈍器でぶん殴られるような衝撃を覚えたことはないし、先日午前十時の映画祭で『パルプフィクション』を観たときは自分には合わない監督だとさえ思ったほどだ。

しかしこの作品の持つ生命力には抗い難い魅力があった。

この作品よりもストーリーが面白いと思える作品は他にもあった。

しかし本作以上にパワフルな作品は稀であると感じ、この順位にランクイン。

 

この作品を語る上で僕にとって大きい存在感を放っていたのはTBSラジオ『アフター6ジャンクション』のパーソナリティ宇多丸さんによる監督インタビューだ。

 

このインタビューで宇多丸さんの語った「映画で現実と戦う」というタランティーノ監督の姿勢。

「シャロン・テートという人物を話題に出すとき、人は皆あの凄惨な事件を思い出す。僕の映画で彼女を救いたかった」というその優しさが凄く心に刺さった。

 

レオナルド・ディカプリオが演じるリックのダメっぷりも最高だったし、ブラッド・ピットの格好良さは歴代ベスト級!加えてマーゴット・ロビーのキュートさも爆発していたし、大好きなアル・パチーノの演技も凄く良かった。

クリフに再三ヒッチハイクを試みたプッシー・キャット役のマーガレット・クアリーもめちゃくちゃ可愛かったなぁ。

 

思わず「やりすぎでしょ!」と言いたくなるような暴力描写はあるが、その描写も実際に起こった凄惨な事件の恐ろしさを示唆していると考えれば納得もいく。

 

最後の最後にリックが火炎放射器でヒッピーの悪漢を蹴散らすの様は爽快さすら感じる。

あの描写一つで見事にシャロン・テートを暗い事件から救済して見せた。

タランティーノ監督、あんたスゲーよ。

 

 

第4位:“JOKER”/『ジョーカー』

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ジョーカーというキャラクターは2008年の『ダークナイト』におけるヒース・レジャーによってある種の頂点を極めてしまったという考えが僕ら映画ファンの中では支配的だったといえるだろう。

しかし2019年、ホアキン・フェニックスという一人の天才の怪演によってジョーカーというアイコニックなキャラクターの歴史に新たな1ページが書き加えられた。

 

誰もが ヒーローたりえることを描くヒーロームービーが受け入れられる一方、隣人はもしかしたらジョーカーかもしれないという不安を掻き立てる本作が評価されるというのも面白い(ここで「自分」ではなく「隣人」と言える辺り、僕は人間関係に恵まれているのだと思う)。

 

夢と現、現実と虚構の境界で揺れ動く作品世界。

自らその二つ名を名乗り始めたのではなく、アーサーが憧れたマーレイによって名を与えられ、またゴッサム市民がその存在を受け入れたことにより誕生してしまったジョーカーというアイコン。

社会が作り出してしまった悪であるというバックボーンが本作におけるジョーカーという存在の特異さを表している。

 

先ほど『ダークナイト』を引き合いに出したが、以前書いたエントリで指摘した通り『ダークナイト』におけるゴッサム市民と『ジョーカー』におけるゴッサム市民にまつわる比較が非常に面白く感じた。以下にそちらを引用する。

この作品(※ダークナイト)の冒頭にはバットマンの真似をして裏取引を止めようとするヴィジランテが登場する。

自分の格好を真似て銃火器をぶっ放す彼らをブルースは良しとせず、縛り付けてしまうが、あの世界では市井の人々は善をなそうとバットマンを模倣する。

終盤の二隻の船と爆弾のスイッチのエピソードを見ても、この作品は人間の善性を信じて作られた作品のように感じる。

 

一方の『ジョーカー』では、マスメディアが貧困層の代弁者として担ぎあげてしまったことも手伝い、人々はジョーカーというアイコニックな存在をマスクをつけることで模倣し、崇めてしまう。

「人の命を奪う」という悪行を称えてしまう『ジョーカー』世界のゴッサム市民のメンタリティと、『ダークナイト』のそれとは好対照をなしていると言えるのではないだろうか。

※以前アップしたエントリの全文は以下より

eibunkeicinemafreak.hateblo.jp

 

 

第3位:『見えない目撃者』

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 事故により視力を失った元警官のなつめを吉岡里帆が演じたサイコスリラー。

聞けば2011年に作られた韓国映画『ブラインド』が原作であるという。韓国映画、すごいな……

作品を第三者視点で観ている僕らでも迫りくる恐怖に慄いてしまうのに、実際に目が見えないなつめの恐怖はいかばかりだったろうか……などと考えてしまう。

 

本作は序盤でなつめのすぐ近くでスケボーと自動車の接触事故が起こり、事故現場に近づいたなつめが車中から助けを求める少女の声を聞いたことからストーリーが始まる。

そのスケボー少年の春馬となつめが次第に関係を深め、バディムービーとしての様相を呈し始めてからストーリーが加速度的に面白くなっていく。

 

真犯人が実は……というのは勘の良い視聴者なら気づいてしまうんだろうな。

僕は勘が悪いタイプであるため直前まで別の人物を真犯人だと思っていたのは内緒だ。

ゴア描写がだいぶキツかったので画面をから目を逸らしてしまうシーンが多かったが、全体を通じて非常によく出来た作品だった。

春馬を演じた高杉真宙君、今後スターになるかも。

 

國村隼=日本のモーガン・フリーマン説、推していきたい。

 

 

第2位:“SPIDER-MAN INTO THE SPIDER-VERSE”/『スパイダーマン:スパイダーバース』

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2019年。アニメーション作品の歴史が変わった瞬間を目撃した。

試写会で鑑賞し、事前に買っていたムビチケ2枚を使った後さらにもう一度観に行った。

僕が観た名古屋会場での試写会では「一方その頃NYでは……」という字幕がずっと消えないというトラブルがあったが、東京会場で試写会に参加した友人も同じ状態だったというツイートをしていて笑った。

 

週替わりで作中に登場するスパイダーガイが描かれた2枚が1組になったポストカードが配布されるキャンペーンが実施され、3組のポストカードを入手してスパイダーガイをコンプリートしたのも良い思い出。

スパイダーマンノワールがとにかく格好良かったなぁ。

楽曲も最高だったのでサウンドトラックも買ってしまった。

 

各平行世界で活躍するスパイダーマン達のタッチがそれぞれの世界観に合わせたものになっていたのに、それらが全く破綻なく一つの画面に収まっていることの奇跡。アニメーションという表現の限界に挑む挑戦と冒険が今まさに目の前で繰り広げられているという実感。眼福という言葉以外見当たらなかった。

 

縦横無尽のカメラワーク、短時間で沢山のキャラクターを魅力的に描ききる技量、能力もさることながら何度打ちのめされても立ち上がるその姿勢こそスパイダーマンの資質であるという力強いメッセージ。

思い出しただけで感動の振動が体内で足の先から頭まで登ってくるような感覚を覚える。“スパイダーマン”の名を冠する映画作品の中で最も好きな作品かもしれない。

本作でつくづく僕はスパイダーマンというヒーローが好きなんだということに気付かされた。幸福感をもらった本当に大切な作品。

 

 

第1位:“AVENGERS ENDGAME”/『アベンジャーズ:エンドゲーム』

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永らく僕の映画ランキング一位の作品は動くことがなかった。

“STAR WARS EPISODE Ⅴ: THE EMPIRE STRIKES BACK”がそれだ。

しかし本作はそれを超えてきた。

2019年度どころか僕の人生で1番の作品。それが本作“AVENGERS:END GAME”/『アベンジャーズ:エンドゲーム』だ。

 

ぶっちゃけ僕は08年の『アイアンマン』からMCUを追いかけて来た人間では無い。

地上波で放送された『アイアンマン』を何となく観たことがあるかなぁ程度で12年の『アベンジャーズ』を観てMCUデビューを果たした半端者だ。

でも僕はあの夏、バイト仲間との毎年恒例八ヶ岳旅行の帰りに同僚二人と『アベンジャーズ』を観に行く決断を下したあの日あの時あの場所の自分を褒めてあげたい。

 

あの日のお前がいたから俺は人生で最も幸せな3時間を過ごすことが出来たと過去の自分をハグしてやりたい。

 

僕は映画を観ていて感動をした時は感情に任せて泣くタイプの人間だ。

そんな僕が今までに最も泣いた映画は『素晴らしき哉、人生!』と『ショーシャンクの空に』だ。

特に前者は初見時に今までにこれほど泣いた映画経験は無かったというくらい泣いたので、それ以上に泣ける映画なんてこの世に存在しないと思っていた。

 

しかしである。

『エンドゲーム』は違った。

序盤中の序盤。

バートンが家族との時間を過ごしていたところ、サノスの指パッチンでバートン以外の家族が全員消えたところでまず泣いた。

“MARVEL”のロゴが出て来るオープニングすら始まる前の僅か5分ほどの間のことだ。

 

そこからは泣きのシーンがひっきりなしで、アベンジャーズ基地で仲間との通信を終え一人涙を流すナターシャに泣き、ピム粒子で2012年に戻るシーンで『アベンジャーズ』一作目のアッセンブルシーンを2019年に再び観ることが出来た喜びに泣き、自らを犠牲にしたナターシャの決意に泣き、ムジョルニアが浮かび上がった瞬間に後の展開を予想して泣き、引き寄せられたムジョルニアがキャップの手に収まったところで堰を切ったように涙が溢れ、“Assemble”のセリフでは声を挙げて泣いた。

 

と言うかムジョルニアが浮かび上がってからは涙の量の多寡に違いがあるだけで基本的に泣きっぱなしだった。

バトルシーンほぼ全泣きの映画って何だよ……

 

初回は公開日である4/26の00:00からの回を観たため、周りにはMCUファンしかいないという環境だった。

その為同じところで啜り泣く声が聞こえたし、同じように身を乗り出して画面に食い入るようにして観るファンがそこら中にいた。

 

皆同じ物が大好きで、観客は「これが観たかったんだよ!」って物が観られて、クリエイター達は「これが観せたかったんだかったんだよ!」ってものを観せてくれた。

 

クリエイター達に完敗した。

こんな物を観せられてしまっては他のどんな作品も「『エンドゲーム』以外の映画」でしか無くなってしまう。

 

とにかくこんな多幸感という名の棍棒で頭を全力でぶん殴られまくるような映画体験は今後の人生においてもう二度と訪れないだろうという予想が立ってしまうくらいに鮮烈で強烈な作品だった。

MCUシリーズ第22作目として、過去の21作全てを肯定し内包し、辻褄を合わせ、シリーズ最高の感情的な盛り上がりを観客が味わえるような仕掛けを各所に散りばめた最強のエンタメムービー。

 

オールタイムベストofベスト映画。

本作が楽しめなかったという人は申し訳ないが『エンドゲーム』に連なる21作品全てを観てから出直して欲しい。

それでも尚良さが分からないというのなら……僕はもう何も言うまい。

 

さて。

そんなわけで僕の2019年度ベストは以下の通りだ。

 

第1位:“AVENGERS ENDGAME”/『アベンジャーズ:エンドゲーム』

第2位:“SPIDER-MAN INTO THE SPIDER-VERSE”/『スパイダーマン:スパイダーバース』

第3位:『見えない目撃者』

第4位:“JOKER”/『ジョーカー』

第5位:“ONCE UPON A TIME IN HOLLYWOOD”/『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』

第6位:“AQUAMAN”/『アクアマン』

第7位:“GREEN BOOK”/『グリーンブック』

第8位:“GODZILLA KING OF MONSTERS”/『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』

第9位:“SPIDER-MAN FAR FROM HOME”/『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』

第10位:“BUMBLEBEE”/『バンブルビー』

 

 

『エンドゲーム』が圧倒的で次点が『スパイダーバース』であることは早々に決定。

3〜5位の三作品と6〜10位の五作品の順位は結構流動的かなぁ。

 

2020年はどんな名作と出会うことが出来るのか今から楽しみだ。

映画好きとしての僕の基礎体力の土台を作ってくれた「午前十時の映画祭」が3月で終わってしまうため、できる限り多くの作品にこのイベントで触れておきたいところ。

 

ブラック・ウィドウ、ワンダーウーマン、ハーレイ・クインという女性ヒーロー&ヴィランの単独作が立て続けに発表される本年アメコミムービーのターニングポイントになるような気がしてならないぞ!

“JOKER”/『ジョーカー』という、意地悪でひたすらに怖い映画

10月4日(金)

公開初日に“JOKER”/『ジョーカー』を観てきた。

 

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面白いとか感動したとかそう言った感想を超えて、ただただ「怖い」と感じる映画だった。

どんな感想を抱くにせよ、兎にも角にもただ「凄い」映画なので、これから鑑賞する人は心して劇場に足を運んで欲しいと思う。

※以下、ネタバレを含む※

 

【ゴッサムシティが生んでしまったジョーカーという狂人】

ティム・バートン版ではジャック・ニコンルソンが、クリストファー・ノーラン版ではヒース・レジャーが、DCEUではジャレッド・レトが演じてきたジョーカーはバットマンやDCコミックスという括りを超え、全てのアメリカンコミックスの中で誰もが認める「最も有名なヴィラン」と言える存在だろう。

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しかし、本作で描かれたジョーカーは僕たちの知るジョーカーではないかも知れない。

 

僕が本作を鑑賞して「怖い」と思った要因は、どこからが現実でどこからが妄想なのかの線引きがとにかく曖昧に描かれているからだ。

 

ある作品を鑑賞している時、僕らにとってその作品の世界で起きている事象は、自分たちが観ている映像と聴いている音声から与えられた情報が全てだ。

自分が観ていた映像が登場人物の誰かの妄想だったとしたら、僕たちは何を信じれば良いのだろう。

 

例えばマンガを読んでいるとき、僕らはコマの外側が黒く塗られているのを観ると「ああ、このシーンは回想が繰り広げられているんだな」と気付く。

 

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出典:『PSYREN -サイレン-』5巻P91 コマの周りの空間が黒く塗られることで過去の描写に映ったことが一目でわかる

 

マンガやドラマで夢や妄想のシーンが展開されるとき、登場人物が我に返る(多くは眠っている状態から覚醒する)様子が描かれることで、僕らは作品の中で描写されている様子が空想の世界から現実の世界に引き戻されたことを知る。

 

本作は現実と妄想の移行がシームレスに展開されすぎるが故に、虚実の境界がとことん曖昧なのだ。

 

・序盤、母親とテレビを観ているアーサー(ホアキン・フェニックス)がマーレイ(ロバート・デ・ニーロ)の主演するテレビ番組で、観覧席からステージに上がるよう呼ばれる描写

・アーサーが同じアパートに住むソフィー(ザジー・ビーツ。『デッドプール2』の幸運がスーパーパワーのXフォースメンバー、ドミノ役の人!)と逢瀬を重ねたり、母親を見舞ったりする描写

 

これらがアーサーの妄想の中で繰り広げられている物語だあるとはすぐに気づくことができなかった。

 

夜、雨に濡れたアーサーがソフィーの部屋を訪ね、ソファに腰掛けている。

それに気付いて驚きの声を挙げるソフィー。「あなたアーサーよね?部屋を間違えているわよ」(大意)

このやりとりを目にしたときの恐怖たるや……

そう、アーサーのことを可哀想だとか気の毒だとか思うよりも先に、僕は「怖い」という感想を真っ先に抱いたのだ。

 

市の福祉課の女性担当者との面談のシーンで、アーサーは自分が発言した内容を女性職員は何も覚えていない、自分に対する興味など微塵もないと憤る。

 

夢と現がごちゃ混ぜになってしまったアーサーの言葉だ。

この「自分が発言した内容」というのが実際にアーサーから女性職員に語られていたのかも疑わしい。

 

ソフィーの部屋に入って行ってキスをしたのはアーサーの妄想。

アーサーに尾行されたことを気付いてソフィーが部屋を訪ねてくるのも彼の妄想。

それどころかアーサーがソフィーを尾行したことすら彼の妄想かも知れないし、もしかしたら冒頭エレベーター内でソフィーと一緒になったことすら彼の妄想の可能性がある。

 

僕はニブい人間なので最後明かされるまでソフィーとアーサーの関係が妄想だとは気付いていなかったが、シングルマザーの女性と交際した経験のある友人は、「シングルマザーであるならば家デートが基本となるはず。ここまで子供が出て来ないのはあり得ない」と早々に妄想であることを看破していたらしい。

僕も子供が出て来ないことは気になっていたが、物語の都合上捨象された要素なのだろうと深く考えなかった。

家デートが基本となるという視点は完全に欠落しており、人生の経験値の違いを見せつけられた形だ。

 

また、アーサーと同じく母親(義母)のペニーも妄想型の精神疾患を患っているため、その発言が偽りであるとされた「アーサー・フレックはペニー・フレックとトーマス・ウェインの隠し子である」という話があった。

しかし写真の裏の「T.W」のサインの存在から、全てを偽りであると片付けることは出来ない。本当は実際にトーマス・ウェインとペニー・フレックスの子がアーサーで、トーマスはウェイン家の権力でペニーとアーサーの関係を養子縁組であるということにしてしまった可能性もある。一方であの写真の裏の文言を、精神疾患を抱えたペニー自身が書き記という可能性も否定しきれない(友人談)。

この辺りは怖いと感じると同時に意地が悪いと思ってしまう部分でもある。

 

本作のジョーカーは自らの快楽のために犯罪行為に手を染めるわけではない。

環境が作り出してしまったヴィランであると言えるだろう。

 

職場の同僚から偶然拳銃を手にしてしまったアーサー(ふと、このシーンもアーサーの妄想かも知れないと気付いた。アーサーが自ら拳銃を買い求めた可能性も捨てきれない……何だこの映画は……)は地下鉄で遭遇したウェイン産業の証券マン三人を撃ち殺してしまう。

 

この事件は偶然起こってしまったもであるが、マスメディアはこれを「下層皆による上流階級市民への反逆である」と意味づけをしてしまった。

 

アーサーからすれば全く意図せずに起きてしまった事件。

その事件に対し、マスメディアは文脈の読み違えから間違った意味づけをしてしまい、またゴッサムシティの住民は興奮を以てこの事件を歓迎してしまった。

 

人は誰も神の視点は持ち得ない。我々が「事実」と信じているものは、常にある事象を一つのものの見方、切り取り方から読み取った「真実めいたもの」でしかない。

にも拘わらず、人はとかく自分の考えやものの見方を絶対視しがちだ。

マスメディアによる事実の読み違えと、それに扇動されて道化の私刑執行人を時代の寵児として迎え入れてしまう市民は、マスメディアの報道とそれを信じる人間への痛烈な皮肉のように思えてならなかった。

 

そしてその皮肉は、夢と現の区別もつかないまま展開されるこの映画を観せられている視聴者そのものにも向けられたものではないだろうか。

これが僕が本作に怖さと意地悪さを感じた最たる部分だ。

 

【「名」を与えることの罪】

はてなブログに引っ越して一番最初に書いたのが『千と千尋の神隠し』と『透明人間』の記事だった。

eibunkeicinemafreak.hateblo.jp

 

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前者において物語の重要なファクターとなるのは「本当の名」だと書いた。

千とハクが元々持っていた「本当の名」を湯婆婆に奪われ、それを取り戻す物語が『千と千尋の神隠し』だ。

 

一方の“JOKER”に目を向けてみよう。

“JOKER”は、何者でも無かったアーサーが彼の憧れたコメディアン、マーレイに名前を与えられることで、ジョーカーというヴィランが生まれてしまう瞬間を描いた作品と言って良い。

 

本当の名を取り戻すことで本当の自分を取り戻した千とハクに対して、マーレイによって名前を(同時に、マスメディアによってその行動に意味づけを)与えられたことで「ジョーカー」という存在が生まれてしまった。

アーサーという個人から生まれ出でたと言うより、周囲の環境が意図せずに産み落としてしまった存在がジョーカーだ。

そのことの罪深さを考えると何だか心が苦しくなってくる。

 

【アーサーの欲求】

先日友人と話していて「アーサーの承認欲求」という言葉が出てきた。

僕はアーサーの求めていたものはまさしく他者からの承認だと思っているが、同時にそれは今日的な意味における「承認欲求」という言葉で言いあらわせるものではないとも感じている。

彼が求めていたのは(今日的なコンテクストにおける)承認欲求よりももっと原初的で、単純に存在することを容認して欲しいと言う思いだったり、「ここにいて良いんだよ」と言って欲しいと言う思いだったり、そんなプリミティヴな欲求では無いかと思う。

日常生活を送るフレック親子にとって、世間はあまりにも冷たい。

 

『新世紀エヴァンゲリオン』最終話 “世界の中心でアイを叫んだけもの”のラストにこんなセリフがある。

 

シンジ:僕はここにいてもいいのかもしれない。
シンジ:そうだ、僕は僕でしかない。
シンジ:僕は僕だ。僕でいたい!
シンジ:僕はここにいたい!
シンジ:僕はここにいてもいいんだ!

 

アーサーは「僕はここにいてもいいんだ!」と気付くことが出来ず、自分がアーサー・フレックであることを否定してしまった男なのだと思う。

生きづらい世の中にでアーサーという存在から脱却し、「ジョーカーーというペルソナを被ってしまった男が本作におけるジョーカーなのだ。

 

【走り回るジョーカー】

ジャック・ニコルソンもヒース・レジャーもジャレッド・レトも、歴代バットマン映画作品に登場するジョーカーはあまり走り回っているイメージが無い。

 

本作ではジョーカーを名乗る前も後も、アーサーの走るシーンが多かったのが非常に印象に残った。

 

【ダークナイトとの比較】

アメコミ原作映画の傑作『ダークナイト』。

この作品の冒頭にはバットマンの真似をして裏取引を止めようとするヴィジランテが登場する。

自分の格好を真似て銃火器をぶっ放す彼らをブルースは良しとせず、縛り付けてしまうが、あの世界では市井の人々は善をなそうとバットマンを模倣する。

終盤の二隻の船と爆弾のスイッチのエピソードを見ても、この作品は人間の善性を信じて作られた作品のように感じる。

 

一方の『ジョーカー』では、マスメディアが貧困層の代弁者として担ぎあげてしまったことも手伝い、人々はジョーカーというアイコニックな存在をマスクをつけることで模倣し、崇めてしまう。

「人の命を奪う」という悪行を称えてしまう『ジョーカー』世界のゴッサム市民のメンタリティと、『ダークナイト』のそれとは好対照をなしていると言えるのではないだろうか。

 

 

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『透明人間』という短編映画が『千と千尋の神隠し』の地上波上映と共に流されたことの意義

去る8月16日。通算9回目となる『千と千尋の神隠しが地上波で放送された。
 
その番組構成が見事だったので、放送から1ヶ月近く経った今ブログを書いた。
ブログを書きたかったがFC2ブログにログインできなかったので、心機一転はてなブログで新しくブログを始めてみることにした。
今回はそんな新生映文計の1本目。
 
僕はスタジオジブリファンを公言しておきながら、実は今まで『千と千尋の神隠し』という作品を一本通して観たことがなかった。
もちろん何度となく地上波で放送されているので、その度にチラ見はしていた。
そのチラ見したシーンを組み合わせれば作品全体の8割程度は観ていると思うが、つまみ食いをしただけでは作品をフルで味わったとは言えない。
 
公開当時はジブリという制作スタジオを意識して映画を観ていなかった気がするので、本作を映画館で観ることをせず、また実家暮らしの長かった僕は家族から干渉されるのが嫌で家庭内では映画作品を観るということをあまりしてこなかった。
 
そんなわけで本作を観ないまま今まで来てしまった。名作の誉れ高い本作を未視聴なことがジブリファンとしてなんとなく恥ずかしかったので、今回の放送を機に鑑賞してみることにした。
 
公開当時の僕にとってはあまり画が好みではない作品という程度の認識だったが、流石は国内外で多大な功績を残した作品。じっくり観てみたらとても素晴らしい作品だった。
 
センスオブワンダーに溢れ、活劇としての痛快さと舞台の不可思議さ・不気味さが高度に混じりあっていたのが印象的。
と、『千と千尋の神隠し』についてこれから持論を展開しても良いのだが、今回は『千と千尋の神隠し』と、その地上波放送に合わせて放送された『透明人間』という作品について合わせて述べていきたいと思う。というか、千と千尋の神隠し』の後に『透明人間』を持ってくるという構成の妙に対して語りたい。
 

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端的に言ってこの番組構成を考えたテレビ局の方は天才だというのが今回の記事の主張の本質だ。
 
千と千尋の神隠し』で重要なファクターとなるのが「名前」だ。
あの世界に紛れ込んだ千尋は湯婆婆との雇用契約を結ぶ=あの世界にいることの許可を得る際、「千」という名前を与えられる。しかしそれは代わりに「千尋」という本来の名前を奪われてしまうということでもあった。
千と千尋の神隠し』は極々簡単に言ってしまえば主人公の千尋異世界に紛れ込み、ハクという協力者を得、自己成長を成し遂げて現実世界へ戻る物語だ。
しかし僕は本作を、千とハクが本当の名を取り戻すことで本当の自分をも取り戻す作品であると理解している。
 
「名前」とはある物体を区別するための単なる記号だ。
その単なる記号が何故そんなに大切なのかということに対してはキリスト教がその答えを持っている。
神やイエス・キリストは誰かに呼びかける際、その者の名を呼ぶ。
また、聖書では子が親を呼ぶ際は「父さん」「母さん」のような尊称を用い、親が子を呼ぶ際はその名や「子」という言葉を用いるのが一般的だ。
聖書には数多くのたとえ話が出てくるが、その中で最も有名な話の一つがルカによる福音書に出てくる「放蕩息子の例え」ではないだろうか。
この話はキリスト教の考える4つの愛、すなわち「エロース」、「フィリア」、「ストルゲー」、「アガペー」を教える際の教材としても使われるが、「名前」を呼ぶことの大切さを語る際にも引き合いに出されることが多い。
以下にその箇所を引用する。
 
ルカによる福音書 15章11節~32節
11 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。 
12 弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。 
13 何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。 
14 何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。 
15 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。 
16 彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。 
17 そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。 
18 ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。 
19 もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』 
20 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。 
21 息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』 
22 しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。 
23 それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。 
24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。 
25 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。 
26 そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。 
27 僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』 
28 兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。 
29 しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。 
30 ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』 
31 すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。 
32 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」
 
僕はキリスト教系の大学に通っていたのでこのたとえ話を何度も聞いた。
(検索してみたところ中部学院大学のHPで「名前を呼ぶ神」というタイトルで記事が出ていたので引用する。興味があればあとで読んでみてほしい。)
 
このたとえ話の解説でよく語られるのは、放蕩の限りを尽くして家に戻ってきた弟に対する兄の呼び方だ。
30節「ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。」
兄は怒りのあまり弟を「あなたのあの息子」と呼んでいる。
さらには29節では父を「お父さん」という尊称で呼んでいたにも関わらず、30節では「あなた」と呼んでいる。
これは「名前や尊称で相手を呼ばない」ことによって相手の存在を否定しているのだ。
 
「名前」は何かの存在を指し示す記号でしかないことはすでに述べた。
しかし同時に、本人にとってその名を呼ばれることは他者から自己の存在を認めてもらったことの証左だ。
(喧嘩をした時、相手の名前を呼ばずに「テメエ!」と言ったり、「ふざけんなカトちゃん!」とあだ名で呼ばずに言わずに「ふざけんな加藤!」というのはこれと同じ原理だと思う。相手の名前を呼ばない、尊称や敬称、愛称で相手を呼ばないことで、相手から距離をとり、その存在を否定したいという意図が働いている)
 
千と千尋の神隠し』冒頭で「千尋」という名前を奪われ、新たに「千」という呼び名を与えられた彼女は、あの世界に紛れ込んで最初の夜を明かした翌朝、ハクに「本当の名」である「千尋」と呼びかけられてもすぐには反応できなかった。
本来の名前を奪われたことで自己認識が希薄になってしまったのがその理由だろう。
 
本作の白眉とも言えるシーンが、川の神であるハクの「本当の名」を告げるシーンだ。
かつて川に落ちたことのある千尋は、その川の中で、今目の前にいる龍の姿を見た。千尋の心の中にしまいこまれた記憶。心の檻の中からその記憶を呼び起こすことができた千尋はハクに語りかける。
 

千 :ハク、聞いて。お母さんから聞いたんで自分では覚えてなかったんだけど、私、小さいとき川に落ちたことがあるの。
その川はもうマンションになって、埋められちゃったんだって……。

でも、今思い出したの。その川の名は……その川はね、琥珀川。あなたの本当の名は、琥珀川……
 
すると龍に姿を変えたハクは光を放ち、人間(神)の姿を取り戻す。
 
ハク:千尋、ありがとう。私の本当の名は、ニギハヤミ コハクヌシだ。
千 :ニギハヤミ……?
ハク:ニギハヤミ、コハクヌシ。
千 :すごい名前。神様みたい。
 
ここで注目すべきは、千尋もハクも、自分の「本当の名」を他者からの呼びかけによって取り戻しているという点である。いうまでもなく、千尋にとってはハクが、ハクにとっては千尋が自分の本当の名を呼びかけてくれたことが、自分を取り戻すトリガーになっている(千尋が自分の持ち物に名前を書いていて、それを読んだことで自分の「本当の名」を思い出すという構造になっていない点に注目)。
この本当の名が湯婆婆の呪縛を逃れるためのキーとなっているというギミックは本作においてかなり重要なのだ。
 
千と千尋の神隠し』の5年後に公開された『ゲド戦記』は宮崎駿が監督を務めなかったことで原作者ル=グウィンと一悶着あったのも記憶に新しいが、この『ゲド戦記』で重要なファクターとなってくるのが各キャラクターの持つ「真(まこと)の名」だ。
この作品の登場人物は「真の名」を持ち、相手に魂を掌握されてしまうことから「真の名」をみだりに明かしてはいけないとされている。(例:ゲド本人にとって「ゲド」は「真の名」であり、通り名は「ハイタカ」である)
原作者ル=グウィンに映画化の許可を求めるくらいに宮崎駿はこの作品を高く評価しているので、『千と千尋の神隠し』の「本当の名」に関わるギミックの構想に『ゲド戦記』の「真の名」が関わっていたことは容易に想像できる。
 
千と千尋の神隠し』の作品世界で「本当の名」は人間(あの作品世界では神様も)が自己の存在を認識する上で最も重要な要素であり、湯婆婆は他者の「本当の名」を奪って別の名を授けることで、他者を使役する能力を発揮する。
 
また、キャラクターは「本当の名」を他者に呼びかけられることで失った自己の認識を取り戻すことができる。
「本当の名」によって他者に自己の存在を承認された時、人は初めて世界に正しい姿で存在できる。それが『千と千尋の神隠し』と言っても良いだろう。
 
さて、ここで話を『透明人間』に移してみよう。
本作の序盤、透明人間の主人公の職場で女性の同僚がペンを落とす。主人公はそれを拾い、同僚にペンを渡そうとするが、女性はそれに気付かず自分でペンを拾う。
これだけでは『透明人間』というタイトルが、「存在感のない人間、あるいは周囲から無視される人間」を比喩しているだけなのか、「周囲から視覚によって知覚できない本当の意味での透明人間」なのか判断がつかないが、その後のコンビニのシーンなどですぐに後者であるとわかる。
 
視覚によって周囲の情報のほとんどを得ている健常者には知覚できない主人公。
しかし盲導犬を連れた盲いの男性や、彼が連れている犬には主人公の存在を認識できた。
 
そして彼らと別れた後、主人公は坂道を転げ落ちるベビーカーを目にし、赤子を助けるために疾走する。
雨の中透明人間がスクーターを駆るシーンの疾走感はアニメーション表現としてとても新鮮だったし、自己の存在を他者により認識してもらえない(=存在を無視されている)彼が誰かを救うために全力を尽くす様子は、その健気さに大きく感情を刺激される。
そして赤ちゃんを救うことに成功した透明人間の頭部を透過して見える赤ちゃんの笑みを最後に、作品は幕を閉じる。
 
盲目の男性、犬、赤子と、健常者の成人とは違う知覚器官で世界を「見て」いる者からしか存在を認識されていない主人公からは、「目で見る世界だけが真実ではない」というメッセージを感じることもできるが、この作品は「他者によって存在を認識されて初めて人は生きて行ける」というメッセージを内包しているのではないかと僕は思った。
 
そんな大それたことを言わずに、「たとえそこに存在していても、誰にも知覚されていなければ存在していないのと同じ」と言い換えをしてしまっても良いかもしれない。
道端に石ころが転がっていても、その道を歩くA君がスマートフォンを操作していてそれに気付かなければ、その石ころは存在していないに等しい。
歩きスマフォをしていたA君がその石ころに躓いて、石ころを認識して初めて、A君の世界に石ころが存在したことになる。
 
千と千尋の神隠し』が(本当の)名前を呼ぶことによって他者を知覚し、他者から(本当の)名前を呼ばれることによって真にこの世界に存在できるというメッセージを内包している作品であったのに対し、『透明人間』は動物が生来持つ知覚器官によって存在を認識されて初めて、人は世界に存在を許されるというメッセージを持った作品であると言って良いだろう。
前者はある人間の存在をより観念的に、後者はより肉体的に捉えているのだ。
そんなわけで、この二作品は人という存在のあり方について異なったアプローチをしているものの、どちらも「人は他者によって自分を認識・知覚されて初めて存在しうる」という共通のメッセージを持っているのだ。
 
『透明人間』を製作したのはスタジオポノック
スタジオジブリ出身のクリエイターが多く在籍するスタジオとして知られている。
過日の『金曜ロードショー』の番組は、そんなスタジオのつながりによって作られた二作品同時放送の構成であると考えた人も多いだろうが、僕はそれ以上のメッセージを感じた。
 
この構成を考えたスタッフは天才的に冴えている。
ブロックバスタームービーばかりチェックしていては気づくことができない、とても素敵な作品と出会うきっかけをくれた『金曜ロードショー』とそのスタッフに、僕は最大限の感謝と賛辞を捧げたい。
 
 
(『透明人間』単体の感想)
 
主人公の透明人間という外見的特徴や、消火器を持っていないと宙に浮いてしまうという特徴は、存在感の薄さ・存在(社会的価値と言い換えても良いかもしれない)の軽さのメタファーではないかと思う。
主人公の暮らしぶりからは就職を機に地元を出てきて一人暮らしをしていて、恋人もいない若い男性という像が思い浮かぶ。
そんな日本中どこにでもいそうな存在がある日突然消えてしまったら……
おそらく職場をはじめとした周囲の人間は数日間は悲しむだろう。しかしすぐに”彼”のいない日常に慣れてしまう。
”彼”の存在は、実は周囲の人間にとってどこまでも薄く、軽いものだから。
でも視聴者はすぐに、どこまでも存在感の薄い、存在の軽い”彼”が、実は自分自身なのではないかという疑問に苛まれる。
このまま消えていってしまってもおかしくない彼をこの世に結び留めたのは、彼という存在を認めてくれた(知覚してくれた)盲目の老人と彼の盲導犬の存在、そして小さな命を救おうとする彼自身の意思だったのだ。
短いながらもメッセージ性に富んだ良い作品だと思った。