Filmarksで感想を書いていたらめちゃくちゃ長くなってしまったのでせっかくなのでブログにも載せてみる。
2024年8作目(9本目)
同監督作『女王陛下のお気に入り』よりも本作の方が好き。
リッチな衣装、リッチな美術から来るこれ以上ないほどのリッチな画にノックアウトさせられた。
外界から隔絶された邸宅の中で「箱入り娘」として育てられたベラが外界と、そして他者と関わることで成長していく描写は圧巻。
ベラが自身を解放していくキッカケは自慰行為と性交。
そして、彼女の個性が爆発するのは船上でのダンス。ダンスは歌と並んで世界でも最も古い芸術の一つと言われている。
持ち金が無くなってパリに流れ着いたベラが選択する職業は、世界最古の職業とも言われる娼婦。
このように、人間にとって原初的な領域で徐々に自我を形成していくベラだが、世界との接点を持ち、そして世界の歪みに気付くキッカケは船上で老婦人マーサに渡された本であるという点が示唆的。
文化の力とその可能性を信ずる僕にとって、素晴らしく背中を押されるシーンだった。
ベラの世界・社会・外界に向けた目は、今日的な文化・文明の象徴たる書物によって開かれたのだという点に勇気づけられた視聴者は多かったのではないだろうか。
「この本が純真なベラに無用な知恵をつけたのだ」とばかりに本を捨てるダンカンは、「女性は知恵をつけない方が良い」と主張する"悪しき男性性”を備えた男性の象徴のように思えた。
また、ダンカンに本を捨てられたそばから新たな本をベラに差し出すマーサの姿からは「暴力に屈しない文化の不滅性」と「男性から押しつけられる不当な扱いに対し、女性同士の連帯こそが何よりも力になるのだ」というメッセージを感じ取った。
マーサと共に船旅を満喫するハリーと寄港地アレキサンドリアで貧困に窮する人々を目撃したベラは大きな衝撃を味わう。
ダンカンがギャンブルで儲けた大金を見たベラは「このお金を貧しい人々に渡さなければ」と考えて行動するが、「自分達が恵まれない人々に寄付をします」と主張する船員に大金を手渡してしまう。それによりベラとダンカンは持ち金を全て失って浮浪生活を余儀なくされる。
この一連の流れは社会の現実そのものと言えるのではないだろうか。
友人であるハリーの意地悪から過酷な現実を突きつけられ、心に大きな傷を負うベラ。
これは「“友人”なる存在(或いは、自分が一方的に“友人”だと思っている存在、と読み替えても良いだろう)がいつ何時も自分にとって優しさを向けてくれるわけではないことのメタファーだと感じたし、「苦い経験によって初めて見えてくるものもある」というメッセージも感じた。これは社会生活を営んでいる者であれば誰もが思い当たる節があることだろう。
寄付金を自らの懐に入れる船員は、「自分自身が善意で起こした行動に対して、社会は時に不誠実を以て応えることがあるのだ」ということを示唆的に現していると感じた。
資本主義社会で特権的地位にいたダンカンが、お金を失ったことでその地位を失い、資本主義社会において自ら支払い行為を行う機会が無かった(「価値の交換」という金銭の役割から離れた邸宅で暮らし、駆け落ちの旅に出て以来ダンカンに経済的に依存したまま旅行を続けていた)ベラは、持ち金を全て失うことによる影響が殆どない。
それどころか娼館という働き場所を自らで見つける強かさを見せ、同僚トワネットの影響で社会主義に傾注していく。
自慰行為や性交に耽溺していたベラが、「娼婦」という性を道具にした職業を選択し、哲学や社会主義に耽る。
自身が快感を覚えた人間の持つ原初的な衝動を職業に活かした上で、自身の内面的興味関心は哲学的・思想的な領域に向かっていく。
そして、そんな彼女の傍らには新たな友人トワネットいて、書籍がある。
これを文化・文明の力、そして連帯の力と言わずして何と言おうか。
そして、これによってヨルゴス・ランティモス監督が人間を「“野生”と“文明”が共存する存在」として規定しているらしいことが読み取れる。
アレキサンドリアでベラが目撃した「階層格差による絶望的なまでの人類の断絶」は本作の白眉とも言えるシーンだった……
ベラには自らが“彼らを見下ろす側”にいることへの絶望もあったように感じるし、それでいて彼女が“彼らの側に加わる”ことを選ばず船に戻り、施しをすることで罪の意識を贖うことを選ぶことのメッセージ性に気が付いて恐くなった
あそこで「下界」の人々を憂いて涙を流すことが出来るのは紛れもなくベラの優しさだと思う反面、ハリーの手を振りほどいてでも自分が特権階級の側から抜け出すことを選ばなかったベラは、この時点で既に「純真無垢」なキャラクターからは脱してしまっていると言える。
彼女はこの時、明確に無垢なる存在から“打算”を覚えた「人間」になってしまったのだと見ることも出来よう。
作中で男達や特権階級による支配に対して「否」と言い続けてきたベラ。
本作後半にはブレシントン将軍という「支配階級の男性」の象徴のようなキャラクターが登場し、ベラは自身の“元夫”である彼の家で束の間の共同生活を営むが……
そこで将軍がベラに求める役割は「自己主張をしない女性」、「口答えをしない女性」、「無知な女性」であり、自分の家を離れて哲学的知性を身につけた妻を将軍は疎ましく感じるようになる。
そして将軍が自分に向けた銃を取ったベラは将軍を撃ち、彼の怪我を治療するために生まれ育った邸宅へ帰る。
ラストでは自身が受けたのと同じ手術を将軍に施したベラが、彼の「飼い主」となって物語は幕を閉じる。
そこにアレキサンドリアで貧困に喘ぐ人々の姿にショックを受けて涙を流したかつての彼女の姿はない。
「作中で男達や特権階級による支配に対して「否」と言い続けてきたベラ。」と前述したが、そんな彼女が持つ者と持たざる者、支配者と被支配者という世界の構造の中に組み込まれてしまったことを雄弁に物語っている。
「体は大人、頭脳は子ども」で、外界の全てに新鮮な反応を示していたベラだが、ラストシーンに向かうにつれてその反応が薄らいでいく。
序盤ではあれほど自慰行為や性行為に喜びを見いだしていたベラが、中盤以降は殆ど性行為をしなくなっていく。
世界を知るにつれ、人は感動を失っていく。
“賢く”なることは、却って人に不幸をもたらすのではないか。
「哀れなるものたち」とは、知恵を得てしまった人類全般を示唆しているのではないか。
言わずもがな、この投げかけは旧約聖書『創世記』2章9節から語られる、「(蛇に唆されて)神との契約を破ったアダムとイブが、エデンの園で知恵の実を食べてしまった」というエピソードを下敷きにしている。
ベラの育ての親の通称は「ゴッド」だし、そう言った意味でかなりキリスト教的な思想の色が濃い映画だなと感じた。
【考察メモ】
・アレキサンドリアの「断崖」は、聖書におけるバベルの塔のメタファー?
バベルの塔の説話は「天まで届かんとする塔を建設する人類に怒りを覚えた神は、それまで一つだった言語を乱し、人々の意思疎通が出来ないようにした。それによって塔の建設は中止された」というもの。
本作における「断崖」がもたらす隔絶は「経済的格差が大きすぎて、異なる階級に属する人間はコミュニケーションすら取ることができなくなった資本主義の生んだ歪み」の象徴?