映文計

映画と文房具と時計、好きなものから1文字ずつもらって「映文計」。映画のことを中心に日々綴っていきます。

“あの日”、「ただいま」が言えなかった全ての人へ……/『すずめの戸締り』

2023年1月14日。

『すずめの戸締り』を観てきた。

(※観賞後すぐに書き始めたこのエントリ、気づけば2ヶ月半くらい経っているんだけど……)

 

本作を鑑賞して感じたことのコアの部分をこのエントリのタイトルに仮託してしまったんだけど、『すずめの戸締り』という作品は“あの日”、「ただいま」が言えなかった全ての人へ捧げた新海誠というクリエイターからの鎮魂歌であると感じた。

 

公開から4ヶ月も経っているのでネタバレもクソもないと思うけど、以下はネタバレが気になる方は劇場鑑賞を終えてからどうぞ。

良かった点

癒しの作品

『君の名は。』、『天気の子』、そして本作『すずめの戸締り』と新海誠監督のメジャー配給作品3タイトルの特徴を考えた時、誰もが「巨大災害からの救済」という共通点に気づくだろう。

 

言うまでもなく『君の名は。』は隕石の衝突、『天気の子』は豪雨、そして『すずめの戸締り』は大震災だ。

 

中でも「東日本大震災」という実際に起こった災害を扱った『すずめの戸締り』は、(少なくともメジャー配給作品の中では)新海誠監督の作家性が最も強く出た作品であると僕は感じた。

監督が今後も大災害によって生じた喪失とその癒しをテーマに作品を生み出し続けていくのなら、次回作で扱うのは大火か火山の大噴火か。

はたまた、これまでは「“現代”の自然災害」を描いてきた監督が、時を遡って第二次世界大戦、原爆投下と言った「過去」=歴史上の人為的な悲劇・戦争を描くことになるかも知れない。

地下鉄サリン事件とか?

 

2011年3月11日。

忘れもしないあの日あの瞬間。

日本に生きる誰もが、あの日自分がどこにいて、あの瞬間何をしていたのかを克明に脳裡に記憶していることだろう。

僕はサンドウィッチマンの大ファンで、10年ほどニッポン放送で続いていた『サンドウィッチマンの東北魂』というラジオをずっと聴いてきた。

最高にくだらなくて笑える話も多い番組だったけど、被災地に寄り添う二人の意思を感じる素敵な番組だった。

(もちろん、今ニッポン放送で毎週土曜日に放送している『サンドウィッチマン ザ・ラジオショーサタデー』も毎回聴いている)

 

故に、被災地に縁のない(この書き方書き方も何だか酷くドライな感じがして嫌だけど)日本人の中では、比較的あの震災のことを考える時間が日常の中にある生活をして来たと思う。

 

しかし、多くの日本人にとってどこかあの震災が過去のものになってはいないか。

今本作を描くことが、被災地に寄り添う気持を再度呼び起こすことに繋がるのでは無いか。

本作を通じて新海誠監督からのそんなメッセージを感じ取った。

 

ちなみに本作は2022年に公開された作品だが、劇中で「震災から12年」と明言されているので、作中の時間は2023年であると言うことが出来るため、年が明けてから鑑賞した僕は、図らずも作中のキャラクターと時間を共有する結果となった。

 

「行ってきます」の先にある言葉を

前述のとおり、僕は東日本大震災に関するラジオを聴き続けてきた。

2021年3月末を以て放送は終了したが、番組内で発された「行ってらっしゃいと言ったまま、見送った家族と会えていない人が大勢いる」という類の言葉が今も心に残っている。

 

 『すずめの戸締まり』では、執拗なほど克明に鍵の開け閉めのシーンが描写される。

鈴芽が家を出る際に玄関のドアの鍵を閉める、自転車の鍵を外す、、、

そこそこの本数の映画を観てきたと思うが、ここまで鍵の開け閉めが丁寧に描写された作品には出会ったことが無い。

映画やアニメに慣れ親しんだ人の心にこそ残る演出だったと思う。

 

では、新海誠監督はなぜここまで扉の開け閉めの描写を作中に散りばめたのだろうか。

「“戸締まり”がテーマの作品だから、鍵の開け閉めのシーンを多くしただけでしょう」という考え方もあるだろう。

 

しかし僕はそんな単純な理由でこの演出があるのだとはどうしても思えないのだ。

 

「行ってきます」と言って家のドアの鍵を閉める。「ただいま」といって家のドアの鍵を開ける。家を出て、自転車に乗るために鍵を開ける。自転車を降りて鍵を閉める。

当たり前だが、鍵を“開ける”という行為はその先の“閉める”を、“閉める”という行為はその先の“開ける”が想定されている。対になる行動を待っている行為、と言っても良いだろう。

(余談だが、この映画を観ながら「同じ“家を出て目的地に向かう”という瞬間を描いているのに、玄関のドアの鍵は“閉める”、自転車の鍵は“開ける”なんだなぁ」と気が付いた)

 

そして、本作に於いて非常に面白いと感じたのは、鍵の開け閉めが「日常」を演出する小道具として役立っていたこと。

 

冒頭で草太から「近くに廃墟はないか」と訊かれ、近隣の山にある廃墟を案内した鈴芽。

その後巨大な「ミミズ」が現れ、どうやらその出所がその廃墟付近であることに気付いた鈴芽は、学校を飛び出して自転車を走らせる。

廃墟の入口に到着し、自転車から飛び降りる鈴芽。

その時、鈴芽は自転車に鍵を掛けず、スタンドを起こさずに自転車を倒して駆けだしていくのだ。

 

「鈴芽が自転車の鍵を閉める」という日常の一コマがスキップされていることで、その場面が日常を離れた非日常、危機的な状況であることを雄弁に物語っていると言えるだろう。

 

雨が降れば雨が上がる。

鍵を開ければ鍵を閉める。

 

「降り始めた雨が上がらない」という非日常を日常に戻す営みが『天気の子』、「開けた扉(鍵)が閉まらない」という非日常を日常に戻す営みが『すずめの戸締まり』だと評するのなら、新海誠という監督は「日常的に繰り返される行為が途絶した“非日常”を“日常”に戻す営みを描く監督」であると言うことが出来るのではないだろうか。

 

物語の終盤、要石と化した草太を救い、常世を彷徨う幼い自分を励まして現世(うつしよ)に戻った鈴芽は、後ろ戸に戸締まりをしてその場を離れる。

その時、彼女は後ろ戸に「行ってきます」と声をかけて戸締まりをするのだ。

 

僕はこの台詞で思わず落涙してしまった。

サンドのラジオで知った「“ただいま”を言えずに、津波に遭われたまま帰らぬ人となった被害者」のことが思われてならなかったからだ。

 

鈴芽に「行ってらっしゃい」と声をかける人は後ろ戸の向こうにはいない。

しかし、常世を離れて現世を歩き始める彼女を、「お帰りなさい」の一言と共に迎え入れてくれる人が何人もいるのだ。

 

エンドロールでは、旅の道中で鈴芽を支えてくれたルミと千果を訪ねる様子が描かれている。

きっとあのシーンで二人は鈴芽に「よく来たね」、「いらっしゃい」ではなく、「お帰りなさい」と声をかけていると思えてならない。

 

「岩戸鈴芽」という名前に託された主人公としての役割

主人公の鈴芽の姓が「岩戸」であると知った時、「なるほど」と思った。

 

岩戸とは記紀神話における「天岩戸(あまの/あめのいわと)」伝説から引いた名前であろうことが予測される。

 

天岩戸に関する物語はここに書くのも野暮というものだが、念のため。

 

天照大御神が天岩戸に引き籠もってしまったことで高天原(たかまがはら。神々が暮らされている世界)にも葦原中国(あしはらのなかつくに。我々人間の暮らす地上世界)にも光が届かぬ闇が訪れた。

(※言うまでもなく、天照大御神は太陽神である)

 

光届かぬ世界となったことに困り果てた八百万の神々は、一計を案じる。

岩戸の前で鳥(常世之長鳴鳥(とこよのながなきどり。ニワトリとされる))を鳴かせ、踊りに長けた神が舞いを披露すると、「自らの不在により常闇が訪れた世界で、八百万の神々が楽しそうにしているのは何故か」と天照大御神は訝しみ、岩戸から出てくる。

 

天照大御神が外に出た後、岩戸を閉めた(=戸締まりした)神々は、再び天照大御神が岩戸に引き籠もって世界を常闇にしないよう説得した--

 

日本人なら誰もが聞いたことのある話を得意気に長々と書くつもりはないのでこの辺りで終わるが、「戸締まり」をタイトルにもつ本作の主人公・鈴芽の姓が「岩戸」であることと、天岩戸伝説を結びつけて考えることはそれほど無理のある論理展開では無いだろう。

 

また、記紀神話において岩戸に隠れられた太陽神・天照大御神を呼び出す役割を与えられているのが「常世長鳴鳥」という鳥であることと、主人公に与えられた名前が「すずめ」という鳥の名前と同音であることも無関係とは言えないと僕は考えている。

 

常世長鳴鳥、即ちニワトリは夜明けに鳴き声を発する。

古代の人々の目には、ニワトリの鳴き声が太陽を呼び寄せ、夜明けを迎えると考えていたのだろう。

そういった考えが、岩戸に隠れた天照大御神がニワトリの鳴き声に誘(いざな)われるような形で岩戸から出てくるという描写に繋がっているのだ。

 

ニワトリではないものの、スズメという鳥の名前を冠した主人公というアイディアは古事記・日本書紀の描写がベースにあるとする論の根拠はこんなところだ。

(ちなみに、鈴芽の母の名前は「つばめ(椿芽)」であり、母娘で鳥の名前を冠している。

椿芽の妹で鈴芽の叔母である環(たまき)は鳥の名を冠してはいない)

 

最後に飛び立つ「すずめ」

蝶、蛾、カラス。

本作では非常に多くの空を飛ぶ生き物が描写されている。

そんな中、主人公と同じ名前の鳥「すずめ」が飛び立つ様が描写されるのは最終盤。

 

後ろ戸を閉じて帰路につく鈴芽、環、芹澤と別れ、一人で戸締まりの旅を続ける草太。

 

駅のプラットフォームから電車に乗ろうとする草太を鈴芽が見送るシーンで、雀が飛び立つシーンが挿入されている。

 

“後ろ戸を閉める”という主人公としての役目を完遂し、道中思わぬ所で遭遇した伯母の心情の吐露、それに伴う関係性の変化を乗り越え、ただ思い人である草太を見送る。

そこに雀の羽ばたきが重なり合うことで、二人が「閉じ師」の師弟という関係性から解き放たれ、今後は単に互いに想いを寄せ合う一組のカップルという関係性に飛び立っていくことを暗示しているようで、非常に印象的だった。

 

環さんの心情の吐露を「なかったこと」にしなかったことの偉さ

「子供は生みの親以外と家族関係を構築できるのか」というテーマは古今東西いくらでも例を挙げることが出来る創作に於ける頻出テーマだ。

 

そして、生みの親ではない大人に育てられた子供が、育ての親と真の意味で「親子」になる瞬間も映画に於いて頻繁に描写される一コマだ。

 

本作に「鈴芽の閉じ師としての成長譚」という縦の糸が一本通っているのは勿論だが、横糸の主要な要素として「鈴芽と環の非母娘関係の変化」を挙げることが出来るだろう。

 

本作には、超常的な力に操られた環が姪の鈴芽に対し、「姉の死によって鈴芽を引き取ったことで自分の人生が狂った」、「コブ付きだと思われ、恋人も満足に作ることが出来なかった」と心情を吐露するシーンがある。

 

老若男女の集客が見込める本作。

環に「あんなこと本当は思ってないよ」と言わせることも出来たと思うが、環の口から「あの言葉はウソではない」と言わせたところに「偉い!」と思ってしまった。

 

家族関係は綺麗事ばかりではない。

震災という不条理な理由によるものであったとしても、環からすれば図らずも「コブ付き」となってしまったことに対する不平や不満が無いはずがないのだ。

それを綺麗事で包み込まず、「実は心のどこかにあった気持ちだ」と言い切らせたところは、物語と現実に対する監督の真摯な姿勢を感じるものだった。

 

しかし、同時にこのセリフを入れたことは功罪双方が同居している、とも思うのである。

前述の通り、本作は老若男女が鑑賞に訪れる作品だ。

鑑賞客の内、何百人・何千人・何万人の子供が鈴芽と似た境遇にいることだろうか。

そんな彼ら彼女らが本作を鑑賞したら、「自分の保護者・監護者も、自分に対して環さんと同じ気持ちを抱いているのではないか」と思案を巡らせる可能性があることは想像に難くない。

 

鑑賞者の心にそんな種を蒔いてしまうことは何と罪深いことだろうな。

 

物語を紡ぐ一人の作家として、環に綺麗事を言わせなかった姿勢は非常に素晴らしいと思うが、同時に視聴者層が幅広い作品でこのメッセージを発信することは若い視聴者の心に傷を残す結果にならないか、と、余計な心配をしてしまうのだった。

 

気になった点

基本的には大傑作という評価ではあるものの、気になる点がゼロかと言われたらそうではないのでいくつか鑑賞中に引っかかった箇所を。

 

草太、椅子になってから東の要石を探すってどうなの?

「閉じ師の家系である宗像家が何代にも亘って探索を試みるも全く見付からなかった東の要石が、西の要石の近くに住んでいたすずめの一言がヒントになって見付かる」というプロットなら分かる。

しかし東の要石の場所が見付かったのは、草太の下宿先を椅子になった草太と鈴芽が訪ね、草太の部屋に保管されていた古文書を調べたことがきっかけ。

 

「そんな簡単に分かるならもっと早く見付けていても良いのでは……」と思わずにはいられなかった。

 

「閉じ師は一所に留まらず全国の後戸を閉じて回っているから、家でじっくり古文書と向き合う時間が無かった」などと自分で理由を考えてみたが、何世代にもわたってこの使命を帯びて生きてきた閉じ師の家系であることを考えたら、それも無理があるよなぁ……

 

「気まぐれは神の本質」は単なるエクスキューズ

「“気まぐれは神の本質”という草太のセリフは、ダイジンが最後までその目的を明らかにしないことに対するエクスキューズでしかない」と思えてならなかった。

というか、ちょっと卑怯だなと。思った。

 

行く先々でミミズを呼び起こすダイジンは、当初鈴芽と草太に厄災を呼ぶ存在であると捉えられる。

 

しかし物語の後半、気まぐれに日本列島を北上していたかのように思われたダイジンの道程は、道々で草太とすずめに後戸を閉じさせ、「東の要石」封印を目指すための旅であったのだという事実が明らかになる。

 

物語の進行にトリックスターのような役割は便利だし、最後にダイジンの行動原理が明らかにされる方が意外性があって良いという判断なのかも知れないけど、「ダイジンが初めからその目的を明らかにしていた方が良かったのでは……」と思えてならない。

 

 その他雑駁な感想

 

衒(てら)いのない『ルージュの伝言』使い

「サブスクリプションサービスの台頭で、若い世代でも過去の曲を愛好する層がいる」という話を聞く。

古今東西の曲を聞き比べることが容易になったことで、若い世代はよりフラットに楽曲の良し悪しを判断し、過去の楽曲が若い世代によって再発見されるケースもある、と言うような類いの話だ。

特に海外で「再発見」されたシティポップなる邦楽ジャンルは、今の若者にも非常に魅力的な楽曲群として受け入れられているという話はちらほらと聞こえてくる。

 

草太の友人で、ひょんなことから鈴芽の旅を助けることになる芹沢はそんなサブスクで懐メロを好んで聴く大学生。

ドライブ中に聴くのに丁度よい楽曲が流れるオープンカーのシーンはそれだけでも非常に楽しいシーンだし、九州から東北を目指すロードムービーの側面を持つ本作の象徴的な一幕ということが出来ると思うが、この流れの幕開けを告げるのは『ルージュの伝言』。

 

この曲はいうまでもなく少女の成長譚を描いた傑作『魔女の宅急便』に採用された楽曲であり、並の監督なら「このプロットでこの曲を流そう」とは思い付いても巨匠・宮崎駿の幻影がチラついて実行には移せないと思う。

しかし、ここまで何の衒いもなくこの楽曲が流れると、「『魔女の宅急便』の曲」という認識から「単なるオールディーズ」に認識の枠組みが組み換えられ、不思議と受け入れられてしまう。

ここは新海誠監督の胆力に感服といったところ。

 

また、「ルージュの伝言」の楽曲が挿入されたシーンで真横を通過するクロネコヤマトのトラックには思わず笑ってしまった。

 

「宅急便」という言葉はヤマト運輸の登録商標であるため、『魔女の宅急便』というタイトルの原作小説をアニメ映画作品にするにあたってヤマト運輸が共同提携に入ったというのはよく知られた話。

ネットには真偽不明の噂話もたくさん転がっているので、気になる方はこちらのヤマト運輸への取材をもとに執筆されたこちらのITmediaの記事を。

www.itmedia.co.jp

 

「すずめ」という曲の歌詞出て来る“産土(うぶすな)”という言葉

アトロクのムービーウォッチメン(映画評)で宇多丸さんが「ミミズ」のことを「“DUNE”のワームのような」と形容していた。

 

 

その映画評を聴いた後に僕は本作を鑑賞した。

作品鑑賞後、主題歌「すずめ」を聴きながら何の気なしに歌詞に思いを寄せていたところ、“産土(うぶすな)”という言葉が見つかった。

m.youtube.com

 

時はまくらぎ

風はにきはだ

星はうぶすな

人はかげろう

 

僕は“DUNE”の原作小説(新訳版)を2022年に読破したのだが、この作品ではサンドワームのことを、物語の舞台・惑星アラキスの原住民フレメンの言葉で“産砂(うぶすな)”と呼称している。

 

映画評論者が「“DUNE”のワームような」と評した作品の主題歌の中に、まさしく“DUNE”のワームのことを示す歌詞が隠れている。

この一致に気付いたとき、僕は「何という偶然!」と少し興奮してしまったのだった。

 

不勉強で「産土」の何たるかを知らなかったので検索をかけてみると、こんなページがヒットした。

 

氏神とは、もともと古代社会において血縁的な関係にあった一族がお祀りした神さま(一族の祖先神あるいは守護神)をいいました。しかし、中世においては土地の神さま、つまり鎮守(ちんじゅ)の神さまである産土神(産土とは生まれた土地という意味で、その土地を守護してくれる神さま)までが、氏神と混同されるようになりました。そうしたことから、必ずしも氏神は、祖先神あるいは守護神を祀るものばかりとは限らなくなったのです。今では産土神は氏神ともいわれるようになり、双方の判別はつきにくくなってしまいました。

www.tokyo-jinjacho.or.jp

 

また、ソースとしての信頼性は劣るがWikipediaにはこの様な記載がある。

産土神(うぶすながみ、うぶしなのかみ、うぶのかみ)は、日本の神の区分のひとつ。単に産土ともいう。

産土神は、神道において、その者が生まれた土地の守護神を指す[1]。その者を生まれる前から死んだ後まで守護する神とされており、他所に移住しても一生を通じ守護してくれると信じられている[1]。産土神への信仰を産土信仰という。

ja.m.wikipedia.org

 

「産土」とは“生まれた土地”を意味し、「産土神」は“その者の生まれた土地を守る神”を意味する言葉であるようだ。

 

では「すずめ」の歌詞における“星はうぶすな”とはいかなる意味を持った言葉なのだろうか。

 

並列的に挙げられている諸要素と合わせて考えてみたい。

 

時はまくらぎ

風はにきはだ

星はうぶすな

人はかげろう

 

「時はまくらぎ」

枕木とは当然鉄道のレールの下に敷かれた木のこと。

本作では「常世」のことを過去、現在、未来の全てが包括された空間であると述べられていた。

 

「時が未来に進むと誰が決めたんだ」と西城秀樹さんの某アニソンでは歌われているが、多くの人間は時間というものが過去から未来に向かって一直線に進んでいく概念であると捉えている。

「紀元前」、「紀元(後)」という時間の捉え方はあたかも数学の授業で登場した「数直線」を思い起こさせるものだ(「紀元ゼロ年」が存在しない点は数直線と大きく異なる部分ではあるが)。

一般的な考えからすれば、鉄道の例えの中ではレールをこそ「時間」のメタファーとして使いたくなるものだが、この曲で「時」はレールと直角に交わる枕木であるとしている点が新しい。

 

……と、ここまで書いてきたが、歌詞の中に登場する”時”を”時間”ととらえることは解釈違いなのではないかとも思えてきた。

 

本作において、常世とは過去・現在・未来が混在した世界であるとされている。

”時”が”枕木”であるのならば、電車の”レール”は何に例えることができるのだろうか。僕は”レール”は”時間”、即ち”時”の連続的な繋がりではないかと考える。

 

”時”の連続的な繋がり・流れ=”時間”を線であると考えると、その連続の中の”点”は”時”と表すことができる。

本作の描写を例にとるならば、「東日本大震災」は過去から未来へと続く”時間”(”歴史”と言い換えても良いかもしれない)というレールの中の一つの”点”(”時”の一瞬一瞬)であり、その”点”を”まくらぎ”と表現しているのではないか。

そうすると、レールの上を走る”電車”・”車両”は人間だろうか。あるいは、生物全般を”車両”ととらえることができるかもしれない。

いや、純粋に人間は車両の中に乗っているという感じだろうか。

 

”時間”(レール)は”時”の連続によって構成され、”時間”という流れの中に横軸として登場する”点”=”時”を”まくらぎ”と表現する。

人は”時間”という過去から未来へと不可逆にレールを走る”車両”(に乗って運ばれる存在)である。走り去った”まくらぎ”、これから上を通る予定の”まくらぎ”に任意でアクセスすることはできず、人は”時間”の流れというレールを走る上でたまたま通過する”まくらぎ”、即ちある一瞬の”時”、”出来事”に遭遇するだけである。

 

しかし、”後ろ戸”にアクセスできる閉じ師のみが”時間”のレールを走る車両の進行から自由になり、任意の”時”(=”まくらぎ”)にアクセスすることが可能となる。

 

「時はまくらぎ」という一つの歌詞から作品解釈にまで大きく飛躍してしまった……

「星はうぶすな」という歌詞を理解するために周辺の歌詞の意味を考え始めただけなのに、どういうこと……

 

自分で書いてきて何が書きたいのかわからなくなってしまったし迷子になってしまっているのでこの辺りで。

 

※「『時間』とは“時”と“時”の連なりである」という考え方は、「“人”と“人”の間=『人間(じんかん)の学」として倫理学を構築しようとした近代日本思想史を代表する哲学の大家・和辻哲郎の「人間」の考え方を思い起こしていただくとわかりやすいかもしれない。

 

 

気を取り直して次の歌詞だ。

 

「風はにきはだ」

”にきはだ”とは”和肌”と書き、柔肌(やわはだ)の古語に当たる一語のようだ。

 

風はにきはだ、即ち柔肌(柔らかな肌)とはどういうことか。

 

前述の「枕木」の自分なりの歌詞解釈を下敷きにするならば、「レールを走る車両が通過する際、肌に触れる風の感触が柔肌のようだ」、ということだろうか。

 

枕木の歌詞解釈を下敷きにしなくとも、本作では主人公の鈴芽をはじめ、登場人物の多くが「走る」ことで風を浴びるシーンが用意されている。

 

日本各地を駆ける鈴芽、椅子になってダイジンを追う草太、ヒッチハイクで拾った鈴芽を神戸へ連れて行くルミ、鈴芽と環を連れて北を目指してオープンカーを駆る芹沢、鈴芽を乗せて自転車を漕ぐ環……

劇中、登場キャラクターは常にどこかを目指して移動を繰り返している。

 

そんな移動の繰り返しの中で、登場キャラ一人一人の頬を撫でる風の感触は、さながら柔らかな人の肌のような感触だったのではないか。

……いや、オープンカーに乗っていて感じる風圧は“にきはだ”の感触と大きく乖離がありそうだけれども……

 

また、今までは僕なりの歌詞解釈を基に「風はにきはだ」の解釈を行ってきたが、蝶・カラス・スズメなど空を飛ぶ生き物が数多く登場する本作において、それらの生き物が”風”に触れることは肌と肌のふれあいのごとく当たり前で不可欠のものであると説いているのかもしれない。

 

「星はうぶすな」

遠回りをしたが、歌詞解釈の入口だった「星はうぶすな」に戻る。

 

“うぶすな”は“産土”と書き、その意味するところは「その者の産まれた土地」であることは前述した通り。

 

“うぶすな”の「産まれた土地」という意味を鑑みれば、ここに歌われている“星”とは夜空に瞬く無数の星々というよりも“地球”を指していると解釈した方が自然だろう。

しかし、『天気の子』と『すずめの戸締まり』を見るに、新海誠監督が地球を「母なる地球」と思っているのかと言う点については、僕は大いに疑問があるわけだが……

 

「星=地球こそ自分の生まれ故郷である」というのがこの歌詞の意味するところだろうか。

 

「人はかげろう」

”かげろう”という言葉には二つの漢字を充てることができる。”蜻蛉”と”陽炎”だ。

前者は漢字の構成要素からも分かる通り虫の名を表し、言うまでもなく後者は気象現象の一つを表す。

 

”陽炎”とは主に日光によって熱された地面から煙が立ち上るように空気が揺らめく現象のこと。空気は温度によって密度が変化し、密度の変化は光の屈折角の変化を生む。

異なる密度の空気がまじりあうことで光の屈折角が変化し、その空気の層の後ろにある物体が人の目の網膜に像を結ぶ際には揺らめいて見える。

 

”カゲロウ”は細長い体に翅を生やした昆虫で、見た目はトンボに似ている。ちなみに、トンボの漢字表記は”蜻蛉”であり、古くはカゲロウとトンボが同種の昆虫であるとみなされていたことがうかがえる。

トンボは昆虫の中でも特に飛翔能力に優れた種として知られているが、カゲロウの飛翔能力はとても低い。

風にたゆたうように飛ぶその姿が、物体がゆらゆらと揺れて見える”陽炎”と似ていることから、この昆虫に”カゲロウ”の名がついたともいわれている。

(ちなみにカゲロウは幼虫が水棲の昆虫であり、アリジゴクの成虫として知られるウスバカゲロウは名前にこそ”カゲロウ”がついているものの、全くの別種である)

 

カゲロウという昆虫は成虫になると食事を摂ることができなくなり、数時間で命を落とす。

その寿命の短さから生まれた言葉が「かげろうの命」という慣用句であり、人の一生の短さ・儚さを表現する言葉として知られる。

 

「人はかげろう」という歌詞はまさしくこの慣用句を念頭に置いて作られた歌詞であると考えられる。

「人(の一生)はカゲロウのように儚い存在である」ということを言い表したいのだろう。

 

過去・現在・未来という全ての時間軸を内包した世界である「常世」。あらゆる時間を行き来できる世界からは、極めて短い時間しか生きることを許されない人間がもろく儚い存在にしか見えないということは十二分に理解できることだろう。

 

【参考】

toyokeizai.net

 

nazology.net

 

結びに

映画オタク仲間と話していると新海誠作品が肌に合わないと言う人は多いんだけど、僕は『君の名は。』も『天気の子』も本作『すずめの戸締り』もハマったので、おそらくは新海誠という監督の描く作品が好きなんだと思う。

 

今作はおそらくは作品として合う合わない、好き嫌いという軸の他に、3.11との距離感や思い入れの強さと言う要素も作品評価に関わってくると思う。

 

本格的に被災してもいなければ被災地ボランティアに行ったこともない僕が3.11を語るのも烏滸がましいので避けるが、前述の通りサンドウィッチマンのラジオを通じて日々3.11の情報に触れてきた身からすると凄く刺さる作品だった。

 

あたりまえが失われ、非日常となってしまった日々を日常に戻す営みが新海誠作品の本質であるとするならば、「行ってきます」や「行ってらっしゃい」、「ただいま」や「おかえり」という挨拶は日常の行為の最たるものだ。

だから、劇中「行ってきます」という鈴芽の何気ないセリフを聞いた時、思いも掛けないタイミングで自分の目に涙が滲んでいた。

 

間違いなくあのシーンは僕にとって本作のハイライトだった。

だから、『行ってきますPV』と称して東宝公式がYoutubeに僕にとっての作中最高の見せ場を公開してしまっているのは何とも勿体ないなぁと思ったりもする。

youtu.be

 

『君の名は。』を観たちゃん嫁は「RADWIMPSのPVなの?」とちょっと笑っていたし、新海誠作品が合わないと言う人が一定数いることも理解はできる。

それでも、そんな人にも、そんな人にこそ観て欲しい。

『すずめの戸締り』は、そんな作品。