購読しているメールマガジンで以下のような文章に触れた。
「速く進もうと気持ちが競(せ)っていた」
(※フリガナはブログ執筆時にnaw0t0により加筆)
この文章を読んで何かお気づきの点はあるだろうか。
まず、「せっていた」の字が違う。
「競っていた」ではなく「急っていた」が正当だろう。
そもそも、「何かを早く行いたいと気持ちが焦る様」を表す慣用句は「気が急く」なので、「気持ちが急っていた」という表現は慣用句に寄せて「気持ちが」を「気が」に改めた方が良いと考えられる。
そして、「急(せ)・く」は五段活用の動詞であり、連用形は「き/い」に活用する。
故に、「速く進もうと気持ちが競(せ)っていた」に赤入れをするなら「速く進もうと気が急(せ)いていた」になる。
そんなことを考えながらメルマガを読んでいたところ、上に挙げた文章の直下に「私のせっかちな性分が行動に現れていたようで」という意味合いの文章があった。
ここでタイトルに戻るわけだが、僕はこのメールマガジンの文を読んで初めて「せっかち」の語源に気が付いた。
「せっかち」とは、「急く」に傾向を表す「〜(し)がち」が組み合わさった「急きがち」が変化した言葉なのであろう、と。
知っている人からすれば「何を今更そんなこと」な話題かも知れないが、言葉の語源に自分で気付くことが出来た時の興奮を真空パックで残したくて、このエントリを書いてみた。
多くの人は、わざわざ語源を考えずに言葉を繰っている。
けれど、ひとたびその言葉の成り立ちに思いを馳せると、途端にその言葉が色づいて見えるのだから不思議だ。
日本語で別れの言葉を表す「さようなら/さよなら」は「左様ならば」、即ち「そのようであるならば」・「そうならねばならぬのなら」を意味する言葉である……とか、その「さようなら」という言葉を海外の視点から「美しい別れの言葉」と評した人がいるらしい……とか。
言葉一つを根っこにして、自分の思考がブワッと広がっていくこの感じが好きなのだ。
だから僕はこれからも何かの拍子にふと立ち止まり、言葉の背景に思いを馳せていくだろう。
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「さようなら」を礼賛した人物を調べていて見つけた白河市のページと個人のブログ。
アン・モロウ・リンドバーグの本、読んでみようかな。